にて候、



第一章1



背中で切り揃えられた髪
ふたつ揃った大きなまなこ
高らかに響く澄んだ声音

嗚呼、それらすべて忘却の彼方に押しやってしまって
これほどまで枷になると、先が見えていたなら
己が両手は何をも与えられる全て、跳ね退けたものを

それは春と呼ぶ
強く吹き付けた風に香がのる
仰ぎ見た蒼穹はどこまでも高く
隣で笑う少年の姿は新緑にまぎれた
それら追いかけた日々は色鮮やかなままで
この心の臓の真中に在った

それを例えるなら紅だと
無意識に必然に、
もうずっと奥底に仕舞っていたもの
取り出して愛でることなく

嗚呼、そうか
自分はそれを大切にしていたのかもしれない
決断を下す時期が狂ったのも、その紅が揺れたからか

発砲の沙汰を知らす腕を掲げた一瞬の後
閃く白刃を振り下ろしたその一瞬の後

今までのどの赤よりも鮮やかに散った紅


「弁丸……オレは………」




甲斐は甲府。深緑豊かな山々の尾根をいくつも越え、五山は長禅寺へと入ったのは日も傾き早くも月がその姿を主張しだした頃。雪解けを十分に待ち藤の盛りを合図に虎哉と数人の従者を伴って、梵天丸が奥州をたってから6日が経とうとしていた。
虎哉宗乙(こさいそういつ)禅師。父輝宗が梵天丸の為と招聘した高僧。彼との顔合わせは奥州をたつ10日前に遡る。
同盟国でもない敵国ともいえる武田が統べる甲斐へと梵天丸が身を置くことになったのも、彼の要請である。いくら再三の招聘を申し入れた相手の言葉とはいえ、伊達家嫡男である梵天丸が甲斐にたつことをこうも簡単に輝宗が応じたことに解せないものを幼いながらも梵天丸は感じていた。
父の命とあれば、自分は否もなく従う所存である。疱瘡にて右目を醜く侵され、梵天丸の周囲が目まぐるしく変化する中、変わらず自分に慈愛の念を向けてくれる肉親。特に母義姫の梵天丸に対する態度があまりに酷くあったため、なお輝宗に向ける梵天丸の情も大きくあった。
その父が虎哉との甲斐行きを許可したとあれば、いくら胸に思うところがあろうと梵天丸は頷くことしかできない。
ただ、何故敵国の甲斐であるのかだけを問えば、彼は穏やかな口調で、名僧として高名らしからぬ理由を梵天丸に聞かせた。
「甲斐長禅寺にはわたしの師が住持しているのですよ。あと久しぶりに会いたい友がおりまする」
果たして、虎哉と梵天丸が無事甲府入りし、それを見届けたところで従者らは奥州へと戻って行った。
今、虎哉が師、岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)禅師が住持する五山の筆頭と謳われる長禅寺に身を寄せることとなったのは梵天丸と虎哉だけである。長旅の気休めもそこそこに、先触れで長の逗留は知らせてあったこととはいえ、改めて謁見の場をもちいてもらい虎哉とともに頭を下げた。
本堂ではなく客殿へと通されていた梵天丸は、床を背に座する我が師となった虎哉の導師を見上げる。老僧ではあるが、眸の色は強く、しかし纏う空気は穏やかであった。
儀礼的な口上も早々に終わり、話が本題へと入ってゆく。奥州の権力者伊達輝宗が嫡子であるということは、当然周囲には秘事であり岐秀以外には伏せられることとなった。
何故、今奥州を離れねばならないのか薄々勘付いていた梵天丸だったが、身分の隠し立てと聞き、ただ離れるだけではすまないのかと聡い梵天丸は嘆息したのだった。
「人手は常に足りないのです」と、朗らかに笑う岐秀に続くようにして「ここならゆっくり修行もできましょう、梵天丸」とやはり穏やかに虎哉は笑って見せた。
寝食はここに住まう者同様、庫裏に身をおくように。虎哉とは同室のようだが、ここに住まう小僧らは一部屋に何人も寝起きしているだろうことを思えば、一応は客人扱いではあるようだった。
「虎哉。あなたがここに来ることは信玄にも伝えておきましたよ。躑躅ヶ崎館は目と鼻の先。明日にはここを訪れることでしょう」
「お心遣い痛み入ります、岐秀様。信玄と顔を合わすのは何年ぶりにございましょうか。今から腕が鳴りまする」
「虎哉様?」
信玄の名を耳にし、途端に好戦的な顔を見せた隣に座する師を梵天丸は訝しげに顔を向けた。
「虎哉は錫杖の遣い手。梵天丸は甲斐の虎とよばれる信玄公をご存じか?」
「はい。御芳名は度々」
輝宗の視野は広い。今は奥州を平定することに尽力をつくしているが、平定成しえた後のことを想定しての外交も欠かさない。勿論、ある程度の周辺諸国の状勢も把握している。その中でも彼の意を引く事柄は、梵天丸の耳にも入れた。
「……思慮深く英邁であられると聞き及んでおりますが」
言い難くそうに梵天丸が己というよりは輝宗が抱いているだろう信玄に対しての評を口にする。他に知特していることも少なくはないが、自分が知っているということが、世話になるとはいえ敵方の人間に伊達の情報網のあらましを与えることは出来ないと梵天丸の口も自然重くなる。
「そうですか。仏門に身をおいた者としては愚弟子としかいいようがありませんが、一国の主としては非のうちどころのない御仁ですよ。あなたとしてはわたしたちよりも学ぶところが余程多い御仁やもしれませんね」
狭くはない日の本に名を知らしめる甲斐の虎を、愚弟子と言ってのけた老僧に梵天丸は瞠目する。しかし、先程虎哉の訪問を信玄に伝えたという言葉通りであるなら、甲斐行きを決めた理由のひとつらしい『会いたい友』とは信玄公のことで、この目の前に端然と座する老僧はふたりの導師なのだろう。
正直、仏門に関心があるとは決して言えない梵天丸としては、この甲斐までの長い道程、虎哉が道々説いて聞かせる仏法を面白いとは思っても、ためになることはないだろうと思っていた。であるからして、信仰深い輝宗がいくら自分のためと、名僧であると高名らしい虎哉を招聘したからといって、梵天丸自身は特に感じ入ることもなかったのである。
しかし、信玄公といえば、知略に長けているだけでなく、剛の者としても名高い武将。それを相手に『腕が鳴る』とは、己が師は余程の錫杖の遣い手なのだろう。
道中、梵天丸はひとつ決意したことがあった。彼を、虎哉宗乙を師と仰ぎ、教えを請うてみようと。そんな師がかなりの手練れであるとは願ってもないことだ。
甲斐行きが決まってからというもの、どこか鬱としていた梵天丸だったが、ここにきて初めて彼の心は浮き立った。この様子であれば、ふたりの仕合が見れるかもしれない。今だ仕合うといっても遊戯の域を出ない梵天丸であるが、そこは武家の子、とっつき難い仏門の教えよりも、技量や力量を競う仕合いの方が遥かに面白い。
「梵天丸。どうやらあなたは説法よりも仕合いを好まれるようですね」
思っていたことが顔に出ていたのか、間違いなく梵天丸の胸中を言い当てて、老僧はやれやれと苦笑する。
「しかし、武家の子とあれば武術の鍛錬はかかせないでしょう。あいにくここに務める者で武術を嗜む者はおりません。ですが、あなたの師は信玄公に負けずと劣らぬ武術の腕前。文武ともに教えを請い励みなさい。ああ、もしかしたら明日、信玄公は真田の若子を連れているやもしれませんね。歳も近いようですし、あなたの相手には調度よいかもしれません」
岐秀はそこで何かを思い出したように、笑みを浮かべた。
「真田……」
覚えのない名に、梵天丸は首をかしげる。
「信濃は上田領主の嫡男ですよ。武田には人質としておりますが」
そこでまた岐秀は笑みを深くする。その様子と、信玄公が良くここへ連れて来るらしい様子から、言葉通りの間柄ではないと思えた。
「梵天丸はいくつになりますか?」
「七つになりました」
素直に答えれば、老僧が目を見張った。
「おや、では若子と同じ歳でしたか。梵天丸はまこと聡明であられますな。これは先が楽しみですね、虎哉」
「はい、岐秀様」
顔を見合わせて頬笑み合う高僧ふたりを前に、梵天丸の意識は己と比べられたであろう真田の嫡男へと向いていた。あの武田信玄に気に入られるということは、余程聡明であるのかと思ったが、岐秀の言いようはまるで反対。ならば、武術に秀でているのか。
「奥州からの長旅さぞや疲れたことでしょう。すぐに夕餉の仕度をさせますから」
老僧はそう締めくくると、寺仕えを呼んだのだった。





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