にて候、
第一章2



寺院に務めるほとんどがこの庫裡で寝起きをしている。宛てがわれた1室に布団を2枚敷き、用意されていた衝立を使うかどうかを逡巡したのち、これからの長逗留を思って間を仕切った。欲しいと思った時に使うよりは、最初からあった方が不自然にならないだろう。
仕度が整えば静かな沈黙が流れ出す。自城の米沢城であれば真夜中でも城兵、不寝番の気配があり、ここまで静かではない。時刻はすでに夜半過ぎ、ここでは全てが眠りについていた。
岐秀との謁見が終わった後、遅い夕餉が振る舞われた。さすがに湯殿の用意まではままならなかったようで、湯が入った桶と手ぬぐいが部屋に運ばれた。
さっと汚れを落としたところで、虎哉は布団の仕度を梵天丸に言い付け部屋を出ていった。おそらく久方ぶりの師弟の再会、語ることも多いだろう。
後は眠るだけというところで、梵天丸は布団の上にどかと胡座を組んだ。
奥州からの道中は馬を使ったとはいえ、まだ小さな体にかかる負担は大きく、宿場に着けば泥のように眠った。
しかし、今日は今だ梵天丸に睡魔は訪れず、眸は爛々としたままだ。理由は聞かずとも知れている。
甲斐の虎。その名は今は驚異的に勢力を拡大している織田より余程耳に馴染む。
奥州の南下を阻むようにして在る甲斐と越後の動向には、輝宗も目を光らせていた。
(それでも……)
現在の仮想敵は奥州にこそあった。

「梵天丸は武術の稽古に熱心だと、輝宗殿から聞いております。あちらでは私が稽古をつけましょう」
甲斐は長禅寺を目指し、虎哉の操る馬へと同乗していた梵天丸に虎哉は当然のようにそう言った。
「虎哉様も武術を?」
緩やかな勾配を歩む馬の背に揺られながら、梵天丸は背後からする声に意外そうに答えた。梵天丸から見て虎哉という僧侶は、穏和で理知的な印象が強い。しかし言われて見れば、梵天丸を前に抱え手綱を握る手は、その印象とは違って大きく骨張っていた。胸に預ける背も不安定さはない。思わず大きく振り返りかけて、
「あまり動かないで、梵天丸。落ちてしまいますよ」
掴んでいた手綱が片方外され、振り向こうと傾いだ体が支えられる。
「それにしても梵天丸は軽いですね。馬は有難いかもしれませんが、しっかり食べてますか?」
決して小さいわけではないが、少年らしくすらりと伸びた手足には子供独特の丸みはあまり感じられない。軽いと言われ、密かに気にしていることでもあった梵天丸は面白くなかった。
「オレは好き嫌いありません、ちゃんと食べてます!それに歳はひとつ下ですが、背だって時宗丸よりずっと高い」
むきになって否定する様子は大人びた印象を与える梵天丸を年相応に見せる。虎哉はくつくつと喉で笑った。
「時宗丸殿とは梵天丸の従兄弟殿でしたか?」
「はい」
「そうですか」
つい従兄弟の名まで持ち出してしまった己の子供っぽさに、梵天丸はきりと奥歯を噛み締める。またその様子に笑いが込み上げるもどうにか堪え、虎哉は己の胸元までしかない頭を一度くしゃりと撫でた。すぐに手を手綱へと戻し、言い聞かせるようにゆっくり言葉を選ぶ。
「物を食すという行為は命を奪う行為でもあります。分かりますね。常に感謝の念を忘れずにおきなさい」
「はい。虎哉様」
「奥州の食事も美味しくありましたが、甲斐も負けませんよ」
それを聞いて、どうにも負けん気の強い梵天丸は譲れなとでも言うように、
「それは楽しみですが、やはり奥州が一番だとオレは思います」
きっぱりと断言する。
「おや、まだ食してもいないのに。何故そう思いましたか?」
「それは、」
何故か。まだ食してもいない他国の食事よりも奥州だと断言できるのか。
それは梵天丸が、色彩美しい膳が自分の前に並ぶまでの過程を少なからずとも知っているからだ。
「奥州の地で育ち、時にはオレのためだけと手が加えられているのを知っているからです」
淀みなく言ってのける梵天丸の言葉に、虎哉の唇がゆっくり弧を描く。
「それは、どこの食事よりも美味しく感じることでしょう」
米沢城で出される料理の数々を思い浮かべ、はい、と返答しようとして、はたと梵天丸は息をつめた。
米沢城をたってから3日。雪解けを待ったからといって、外はまだ十分寒い。そのせいか宿場や食事処で口にした物たちは、どれも体の芯から暖めてくれるようなものばかりだった。それに比べて、最近の、特に奥州をたつ前の食事はどうであったか。少し冷めたものでなかったか。いつからかは思いだせない。しかし、米沢を出てから食す食事は、中には舌を焼くほどのものもあったのだ。それに新鮮さを感じていたともいうのに。
今さら気付くとは……。
「……虎哉様。オレは逃げたのですか」
今までの口調とは打って変わって、唸るように梵天丸が言う。
料理が冷めているということは、調理されてから時間がたっているということ。その間、何がされているのか。
することはひとつ、毒味だ。
冷めた料理が出されるようになったということは、毒味に時間がかかるようになったということ。
自分の知らぬ間に、毒が入っていたことがあったのかもしれない。誰かが自分の代わりにその毒を受けたのかもしれない。
それなのに自分は、今回のこの甲斐行きをただの物見遊山であるかのような心構えで。
ぎりと、握った手の平に爪が深く食い込む。
「最初に言ったでしょう。こたびの甲斐行きは友に会いにゆくのだと。新しい弟子を自慢しに行くのが目的なんですよ。わたしはこんなにも視野の広い弟子を持つことが出来て、輝宗殿には感謝しています」
「虎哉様。オレの眸は……」
ここにきて初めて触れられた目の話題に、梵天丸はさらしで巻かれた顔の右側に手を当てた。
「あなたがこれから生きていくうえで、片目の不自由さを実感するのは戦場でしょう。しかし、その戦場を不利にするも有利にするも、あなたの心の視野の広さなのですよ。分かりますか。先ほどあなたはひとつのことに気づきましたね。それであなたには選択ができました。逃げるのか、それとも体勢を立て直すのか。梵天丸、覚えておきなさい。状況を知ろうと働きかけること、あることに気づこうと思慮深くなること、広い視野で物事を捉えること。それらが自身の存命に繋がるということを。あなたの右目は見えないかもしれない。でも上に立つあなたはそれよりも他に見えていないといけないことがある。分かりますね、梵天丸」
真っ直ぐ前を向いたまま、諭すように導くように、虎哉は腕にある輝くものを秘めた少年へと語りかける。
それに力強く頷くことで返し、梵天丸は前を見据えた。
逃げるのではない。これは新しい師のもとで自分を伸ばす好機であると言い聞かせて。
恐らくは父輝宗は、梵天丸を奥州より離し、暗殺される危惧を払拭したうえで、何かをする心づもりなのだろう。この期に及んで、輝宗が梵天丸を嫡男として見限ったなどと愚かしいことを思いはしない。
大丈夫。自分は認められている。期待されている。だからこその虎哉の存在なのだ。
「オレは父上の期待を裏切るような真似はしません」
父が対峙する相手が実の母であったとしても、と梵天丸は強く心に誓った。



朝、米沢城ではありえない早さに起こされ、梵天丸は本堂の掃き掃除をさせられた。客人扱いだと思っていたが、どうやらそれは甘かったらしい。それでも慣れぬ梵天丸には簡単で楽な務めを回しているのだという。確かに暦では春とはいっても、早朝ともなると背筋から寒気が襲う。室外や水仕事でないだけ、梵天丸の割り当てられた務めは楽だといえよう。ただいつまでそうであるか。
どたばたと慣れた様子で走っていく3つの後頭部を生温い目で梵天丸は見送った。濡れて飴色に変わった廊下が朝日を受けて輝いている。
(…………)
奥州権力者の嫡男である自分が、長い廊下を頭をつるっと丸めた小僧たちに混ざって、雑巾掛けをする日もそう遠くはなかろう。
(絶対ぇ、髪は落とさねぇからな)
己の頭の形に自信がないわけではない。梵天丸を母の代わりと溺愛する乳母が、乳飲み子であった自分を数刻に一度寝返りさせるという手間を掛けていたというのだから、己の後頭部が真っ平であることはないだろう。
念のためぺたぺたと梵天丸は後頭部を手の平で確認した後、さっさと掃除を終わらせにかかった。
敵国の総大将、遠目からでも見ることが叶うというなら御の字だ。期待はしていないが真田家の嫡男というのも暇潰しくらいにはなるだろう。さすがの梵天丸も、木刀すら握ったことのないような小僧ら相手を叩きのめすことは躊躇われる。聞けば武士の子。問題ない。
「梵天丸殿。そこが終わりましたらこちらもお願いしたいのですが」
ほうきを持ったまま壁にもたれ掛っていた梵天丸に、汚れた雑巾を持った小僧が声を掛けてきた。
「ああ?」
甲斐の虎の気に入りを、どう熨してやるかを算段していた梵天丸はその気迫のまま、相手を威嚇する。
「え、あ、まだ終わっていないんでしたら、いいんですけど……」
梵天丸よりいくつか年上だろうと思われる小僧が、彼の気迫に押された様に言葉が尻つぼみになってゆく。
「誰も終わってねぇなんて言ってねぇだろ。ここはもう終わった」
次はどこだ?と尊大に言ってのけると、梵天丸は次を促した。
彼の導師となった虎哉は、あれでいて口煩い。梵天丸も彼を師と仰ぎ、ここでの生活を無駄にしない為にも、やれと言われたことはひとまずやってやる。何もせずして口先だけで虎哉に勝てるとは梵天丸も思わない。己でまず為した上でそれが必要なのかそうでないのかを判断してからでなければ意味がない。面倒だが、やりたくないからしないではまず、虎哉は納得しないのは短い付き合いでも、梵天丸には分かっていた。
新しい持ち場まで案内され、黙々と本尊の阿弥陀像を背にほうきを動かす。あらかた掃き清めたところで、また、先ほど声を掛けてきた小僧が梵天丸を呼びに来た。
その頃になってようやく寒さも弱まり、皆は本堂での読経をこれから始めるらしく、朝餉までは自由にして良いとのこと。梵天丸は迷わず二度寝をするために宛がわれた部屋へと戻っていった。
疲れた身に二度寝は至福。梵天丸は畳の上にごろりと横になり、寝入っていた。読経は半刻ほどと聞いていたが、その刻限はとうに過ぎ実際のところ朝餉も既に終わっていた。それでも長旅の疲れは存外しつこいらしく、右側を畳に押し付け、明かりを受ける左側の睫はぴくりとも動かない。そんな折り、ガサリと障子の外で音がした。
梵天丸の眉が寄る。寝がえりを打とうとして、さらにガサガサと激しく葉の擦れる音で目を覚ました。瞬時に身を起こし外をうかがう。これだけ音を立てている正体が刺客だとは思わないが、流石に何の警戒もなしに飛び出ていくことは憚られた。
一呼吸おいて梵天丸は障子を開け放った。





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