にて候、
第一章3



「!」
梵天丸はその光景に目を開いてぎょっと息を呑みこんだ。
一丈ほど先に赤い小袖を着た童が必死に木にしがみ付いていたのだ。地上まではゆうに一丈以上ある。当たり前だ。梵天丸たちの部屋は2階。それと同じくらいの高さに身を置いているのだ。子供が身動きするたびに枝は揺れ緑の葉がぱらぱらと落ちてゆく。
梵天丸は絶句したあと、咄嗟に叫んでいた。
「そこで何してやがる!」
小さな背がびくりと揺れる。ゆっくり振り返って見えた顔は、前髪を真っ直ぐ切り揃えられた、大きな眸が愛らしい童女のものだった。
その眸が梵天丸を捉えてすぐ、
「うわ!」
足がずるりと滑って、小さな体が傾いだ。咄嗟に両腕で幹にしがみつく。
「いいい、いきなり声をかけられるな!落ちるかと思ったではないか!」
童女は真っ赤な顔をし甲高い声で叫ぶと、ちらりと下を見た。見る間にその顔は真っ青になってゆく。
「怪しいヤツに誰何するのは当然だろう」
「それがしは怪しくなどない!」
「じゃあ、そんなとこで何やってんだアンタ」
睨みつけてくる相手をじっと眺めながら、梵天丸はにやりと笑った。勿論、この童女が怪しい者だなんて思ってはいない、ちょっと付き合ってやろうという気になったのも、ここが米沢城でないからだろう。
「うぐいすの雛が巣から落ちておったから、戻してやっただけでござる」
童女が指さす場所を見れば、確かにうぐいすの巣がある。まだ孵化していない卵もあるようで、木の実のような赤茶色の卵が数個と、大きさの違う雛が2匹見えた。
「落ちた雛を戻してやって、アンタが落ちてたら世話ねぇな」
「そ、それがしは落ちたりはせん!」
「だったら早く降りたらどうだ。用は済んだんだろう?」
梵天丸は窓の桟に両肘をつき、微動だにしない童女の傍観の体勢に入った。
「何をしておる」
「ああ?アンタを見てる」
「見んでいい」
「もしかして降りれねぇとか?」
ぐっと息を詰める気配がして、梵天丸はくつくつと笑う。もしかしなくても、童女が木から降りれないことなど最初から分かっていたが、どうやら相手はそれを知られたくなかったらしく、
「そんなことある訳なかろう!」
大きな眸を吊り上げて叫んだ。その瞬間、手をついていた幹の皮がずるりと剥がれる。体勢を崩した体が中へと傾いだ。
「うわ!」
「!」
すんでのところで両腕を幹に絡ませ、幹にぶら下がる。ぱらぱらと皮と葉が下へと落ちていった。さすがの梵天丸もその光景に心の臓がとびあがる。
「何やってんだ、本当に落ちるぞ!」
「貴殿がそれがしを侮辱するからでござろう!」
身を乗り出して叫ぶ梵天丸に、顔を真っ赤にした童女もまた叫ぶ。
「女がしゃしゃり出て来るからこうなんだ!ここには男手なんていくらでもいるだろうが!」
「それがし女ではござらん!」
「ああ?!」
必死にぶら下がる姿はどう見ても童女のもので、ふっくらした頬にくるりと丸い眸、切り揃えられた明るい髪は肩下までさらりと長い。そして何より紅の小袖には小花があしらわれていて、梵天丸はこの緊迫したなか頭の天辺から爪先まで視線を走らせていた。確かに女の割りには裾から伸びた足はすらりと細くあるかもしれないとは思ったが。
「とにかく、足場を探せ!いつまでもそうしてらんねぇだろ!」
梵天丸は疑問を振り切るように、今は童女、もとい童を叱咤する。
「ど、どこにあるのか分かり申さん!」
ぎゅっと眸をつぶって童が返す。
「馬鹿か!眸つぶってどうする!ちゃんと見やがれ!」
「嫌でござるー!」
「見ねぇと降りれねぇだろうが!アンタ落ちたいのか!」
「それがし、高いところは苦手でござる!!」
「威張んな!」
当初の虚勢はどこへ行ったのか、威勢だけはそのままに童が弱音を吐きだす。
梵天丸は「くそ!」と口汚く吐き捨てると、身を乗り出し目を凝らした。
「今からオレが言うこと聞けよ!アンタの足元の前に枝がある。そこまで足を延ばせ!」
「わ、分かり申した!」
童は梵天丸の言うとおり右足を前へと動かした。しかし、あと少しというところで足先が届かない。
「もっと、延ばせ!」
「これが限界でござるー!」
足をつっぱったまま苦しそうに童が叫ぶ。
「そんなのが限界な訳あるか!やれ!」
「何故、貴殿にそれがしの限界が分かろうか!」
「文句言わずにやれ馬鹿野郎!」
「なれば貴殿もやってみればよかろう!」
「何でオレがやらねぇとなんねぇんだ!落ちそうなのはてめぇだ!」
梵天丸のもっともな言い分に、童はううぅと悔しそうに呻ると痺れる腕に力を入れ、反動をつけて足を前へと蹴り上げた。爪先が枝に触れるが踏ん張りきれず、また中へと体が戻される。
「もう1回だ!」
「それがしに…もうちょっと…背丈があれば……!」
「贅沢言ってねぇで集中しろ!落ちたら伸びるもんも伸びねぇようになるかもしれねぇんだぞ!」
言われた通り、童はぐっと力を入れもう一度、前方の標的へと向かって体を揺らす。
「これからは甘い物ばかり食べず、佐助の言うとおり好き嫌いせずに何でも食べるように致しますぞ、うおおおおおぉお館様あああああぁ!!」
「叫ぶ元気があるなら丹田に力を込めやがれ!!」

気合と激励を双方繰り返したのち、どうにか足場を確保できた童を見届け、ひとまずの休息を二人は得ることができた。
「で、何でアンタそんな格好してんだ」
はぁはぁと肩で息をしながら梵天丸は、童に問いかける。その声は若干掠れていた。
普段、梵天丸はここまで大声を上げたり、騒いだりはしない。声を嗄らすほど叫んだのは初めてだ。
調子が狂うとはこのことだろう。従兄弟の時宗丸もやんちゃであるがここまで融通がきかないことはない。目の前の姿形だけは愛らしい童は逐一、梵天丸の揶揄する言葉に生真面目に応えるものだから、つい梵天丸も茶々を入れてしまうのだ。
しかもどこから声を出しているのかと感心してしまうほど、声がとおる。負けじと声を張り上げてしまい、見事この喉は潰れてしまった。そんな訳で梵天丸の喉は空気が通る度に違和感があり、行儀悪くも舌打ちしそうになるのだ。
「そんな格好とはこの紅い着物のことを申しておるのだろうか?」
気分を害している梵天丸を怯むでも臆するでもなく、童は片袖を開いて見せた。
こちらは全く喉に支障をきたしていないようで、梵天丸は面白くない。しかし目の前にある理由も知りたくもあった。
童の確認に梵天丸はこくと頷く。
「それがしのお家では、代々7つの歳になるまで男子は皆女子の格好をさせられるのでござる。髪をこのように伸ばしておるのもそれゆえ。先だっての正月に7つになり申した。それがしが大きな病もなく無事七の歳を迎えられたのも、こうして女子の格好をしておるからと聞いておりまする。この秋にはやっとそれがしも男子の格好ができるでござろう。今から楽しみでござる!」
そう言うと、目の前の童は屈託なく笑った。





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