にて候、



第二章2



伊達軍が乱入してきた川中島の合戦から、既にひと月が経とうとしていた。その間幸村は何度奥州に向かおうかと思ったか数知れない。その半分は行動に起こそうとし、その度にあの手この手を使って幸村の奥州行きは、彼の信頼厚い忍に阻止されてきたのだった。
元々堪え性のない自分の限界はもはや底を付き始め、宿敵の言葉を真に受けるならば、自分は奥州へと行ってもいいはずなのである。それを踏まえても十分待った。
『月影だけが馬じゃないでしょ』という佐助の言葉に、「『佐助だけが忍じゃないだろう』と言われれば、俺はそう言った相手を二度と口が利けぬようにするつもりだ」と吐き捨て怒気を込めて睨みつければ、佐助はあーだとかうーだとか唸っていたがすぐに「そりゃ、俺様ほど優秀な忍はそうそういないからね」といつもの軽い調子で返してきた。分かればいいとだけ短く相槌し、幸村は何やら報告があるらしい佐助に先を促した。
「それで、お館様は何とおっしゃられたのだ?」
まだ寒さの残る春の陽気の中、諸肌脱いだ格好で、肌を流れる汗はそのままに幸村は二本の木槍を激しく振るう。
躑躅ヶ崎館に幸村が宛がわれた一室から眺めることの出来る庭の一角。程よく剪定された木々に囲まれたここを幸村は修業の場としてよく使っていた。もちろん道場もあるがそこは雨の日くらいしか幸村は使わない。汚す、燃やす、破壊するの三拍子が揃っているらしい自分に、鍛錬は最小限の損失で済む野外でしてくれと彼の忍が泣きついてきたからだ。佐助の言い分はもっともだったので幸村は律儀にそれを守って今に至る。道場ほど広くはないが、それでも十分な広さのあるここで距離をつめて立つ己の忍に幸村は耳を向ける。
すぐ側に立つ忍は時折髪を二槍が発生させる風圧でくゆらせながら、それに臆することなく慣れた様子で答えた。
「端的に言うと旦那の奥州行きが決まったんだよ」
「何だとッ!?」
幸村は上段で構えていた槍を素早く旋回させ佐助へと振り返る。すぐ近くで槍がしなる音がして、佐助は軽く上体を反らし木槍の先端を避けた。
「いつものことだけど、もうちょっと周りに気をつけてよ、旦那。あっぶねぇあぶねぇ。俺様じゃなかったら確実に頭蓋骨陥没してるぜぇ?」
「そんなことはどうでもいい!早く先を申せ佐助!!」
「はいはい、そんな鼻息荒くしないで。えーと、うちから奥州の伊達に和睦を申し入れたのは知ってるよね、旦那」
「当たり前だ。その使者に立ったのが兄上だったではないか。それくらい俺だって知っているぞ」
「うん、でさぁ。今はその返事待ちでもあるんだけど。さすがに長引いてると思わない?」
武田が伊達に和睦及び同盟を申し入れたのはあの川中島の合戦のすぐ後のことである。甲斐から奥州への距離を差し引いても、佐助の言うように返事が遅過ぎる。確かに自国の安寧を左右する同盟や和睦の是非は慎重に吟味されるべくもの。昨今、天下に名乗りをあげた国々が絶えず挙兵し国境を越え争う時代。どの国も隣国だけではなく近隣諸国の情勢はあらかじめ把握しているものである。
どこと同盟を組めば自国にどれだけの利があり、敵国にどれほどの打撃を与えることが出来るのか。相手国の軍事力を考慮した連合作戦、軍事施設の共有だけでなく、その国の作物から街道、河川まで徹底的に調べあげ自国の有利へ事が運ぶよう情報収集はどこの国も躍起だ。
同盟を申し込まれる程の国ともなってくれば、即答できるだけの判断材料は常に持ち得てしかるべきもの。
「独眼竜め、勿体振りよって。その気がないなら早く同盟拒否の返事をすれば良いものを!」
敵の実力は認めざるを得ないものの、大事な月影を質にとられている幸村としては自然と悪態がついて出てしまう。本能ともいえる死と血の恐怖さえ霧散させてしまうほど胸たぎらされた相手。己と同等であると、思う間もなく直感で感じた。激しい死闘を繰り広げる中、己の存在意義も周りの状況も忘れ果て槍を振るったのは初めてのことだ。常に自分の心には、主があり甲斐がありそして人があった。それは戦場に在るとき程、強く感じるものであったというのに。
不躾なほど向けられた眼光鋭い隻眼と、揺るぎない強さと、真っ正面からぶつかってくる覇気に幸村は戦慄した。拮抗し反発し合う力に歓喜し、いつものように振り切ることの出来ない己の力量に苛立った。これほど強く死を身近に感じたことはない。
敵でありながら敬意の念が胸に湧き、それと同時に負けられぬと強く思った。
そんな幸村の独眼竜に対する素直な称賛は、小隊の撤退後すぐに憤怒へと変わってしまった。期待を裏切るような彼の卑劣極まりない言動が、堅物で実直な性質の幸村には受け入れがたく、ひとたび槍を下ろせば人情に熱くほだされやすい幸村が彼に対してだけは悪感情がわいてしまう。
「勿体振ってるってより、待ち人を待ってるって感じなんだよねぇ。信幸様が使者に立ったってアレ、小助が信幸様の影武者として奥州に行ってるのよ。ほら信幸様って持病があるから、外交はほとんど小助を影武者に立たせてるでしょ?」
真田の嫡男として沼田を任されている信幸であるが、やはり幼少の頃より患う病で今でも床に臥すことが多い。そんな信幸に使者として白羽の矢が立ったのは、あらかじめ同盟の意を知らせ正式に使者をたてる旨、奥州伊達に伺を立てたところ、向こうからの条件が真田の嫡男を使者にたてろとのことだったのだ。
使者に立たされる人間はその同盟が成立しなかった場合、その場で切り捨てられることも覚悟せねばならかった。しかし、今後の国を左右する大儀を名もない雑兵にさせる訳にはいかない、だからといって重臣を立て失っては元も子もない。
したがって使者には名のある武将の影武者が表に立つことも多かったのだ。
「おお、小助が奥州へ参ったのか。ならば問題なく独眼竜との謁見はかなったのであろう?」
「それがさ~、なんと小助が信幸様の影武者だってあちらさんにばれちゃったんだよね」
「なんと!小助がか!?」
「そう、あの小助が」
元は幸村の家臣として側に仕えていた小助は、歳も近く顔立ちも似通っていたため幸村の影武者となるべく育てられていた。しかし、あの一件以来小助は信幸の影武者として真田家嫡男の護衛をすることとなり、公の場のほとんどを小助が出向いていると聞く。今では甲斐の者でも小助を信幸だと思っている者も多かった。小助の影武者としての能力の高さだけを言ったのではなく、そういった背景があるにもかかわらず、見破られたということに佐助は解せないと低く唸る。
「それで、結局本物を連れて来いってなったんだけど、信幸様がまだ床払いができる状態じゃなくってさー。それで旦那が代理で奥州へ行くことになったってわけ。俺様も一緒に行くけど今回は使者として行くんだから絶対絶対あっちで喧嘩売ったりとかしないでよ。もう俺様それだけが心配で……。本当月影の件がなければここまで…」
「そうと決まれば早速支度をせよ、佐助!!巡り巡ってきたこの好機、無駄にする俺ではない!!」
「って、話聞いてた旦那!?使者として行くんだからね!月影を奪還しに行くわけじゃないんだから!!」
今にも馬を用意せよと命じそうな主に、佐助はすかさず待ったをかける。
「分かっておる!しかし独眼竜もそれがしに来いと言ったからには奴もその腹積もりに決まっておろう!行くぞ佐助!」
「行くぞって、まずは大将が呼んでるからそっちの支度して!書状を預からないで奥州まで何しに行くつもりだよー」
尤もな事を佐助が言う。
「おっと、そうであったな」
己の主が呼んでいると耳にし、瞬間沸騰していた幸村も平静を取り戻す。
「まったくしっかりしてよ、真田の旦那ぁ。もう童じゃないんだから俺様が一から十までしてあげなくてもいいでしょ?」
「む。何を申すか佐助。いつ俺がお前に一から十までさせたというのだ」
言いながら二本の木槍を佐助に押し付けた幸村は、肌蹴た着物に手をやり歩いて行こうとする。
「お館様は大広間か、佐助」
「あーちょっと待って旦那!どうせ謁見が済んだらすぐ出立するつもりなんでしょ!?だったら先に湯浴みしてきて!そんな汗だくで大将のとこに行くわけにもいかないんだから」
「ん?そんなに匂うか?」
幸村は単衣を腰に纏わり付かせた格好で、腕に鼻を近づけてくんと匂いを嗅ぐ仕種をする。昨日も床につく前に湯殿を頂いていたし、流れたばかりの汗が匂うこともなかった。眉を寄せる主の様子に目敏く気付いた佐助が、じろりと目に力を込め威嚇する。
「匂う匂わないの問題じゃないっつのー!!そんなにだらだら汗かいて、絶対後から匂うんだから行って!水被るだけじゃ汚れは落ちないんだから、ちゃんと湯を沸かしてもらってよ!」
「あああああぁ!分かった!分かったから着物を脱がすな、佐助!!」
軽く頭に水を被って汗を拭えばいいくらいに思っているだろう幸村に、そうはさせるかと主の性格を心得た忍はすでに脱いでいるも同然の単衣を容赦なくはぎにかかる。
「そこまでしてやんないと動かないのは旦那だろー!!」
するんと抜き取った単衣を肩にかけ、もたもたとずれる袴を持ち上げる主に忠実な忍は厳しい目を向ける。
「あ、そうだ旦那。着替え用意しとくけど、何にする?」
「何でもよい。適当に用意しておいてくれ」
「何でもって……遊びに行くんじゃないんだから。仮にも甲斐の使者として奥州に行くんだぜー……」
脱力したように佐助は首を落として主を詰る。
「だから佐助にまかせると申しておるのだ」
それくらい心得ていると暗に含め幸村は唇をとがらせる。主のその幼い仕種に佐助ははぁと盛大なため息を吐いた。
これから奥州へとこの主を使者へ出すのかと思うと、どんな偏食絶食をしようともびくともしない丈夫な己の鍛えあげた胃が、キリキリと痛む心地がした。
もちろん幸村が武田の武将として誰かに劣っているだなんて、佐助も思っていない。思うはずがない。幸村が甲斐の虎に絶対の忠義を誓い、命の限り主のために尽くす事こそを至福とそれを誇りにしているように、佐助もこの若き虎こそが至上であると疑うことなく彼の側にいる。信玄と幸村との関係に加え、常日頃より彼の世話までもする自分はまた彼らと違った情もあると自覚していた。
幸村の初陣の時はさすがに彼の側を一時も離れはしなかった佐助だが、今ではどんな合戦に出しても真田の名に恥じることのない戦いぶりを見せてくれると信じている。名のあるどんな勇猛果敢な猛将にも劣らぬ武将であると。そこに関しては胸をはって言えるのだが、手に槍と手綱以外を持たせた時の主の雄姿を佐助はいまだかつて見たことがない。
不安である。使者を任せられるのはかまわない。信玄公自ら徹底的に叩き込まれた諸々の作法と、物怖じしない性質は転生のものであろうか。これらを備えていれば、恙無く事は運ぶだろう。では、何をそんなに憂えるのかといえば、その使者として幸村が赴く先が奥州であるという一点につきる。幸村からしてみれば、念願叶ったりの舞い込んできた僥倖かもしれないが、佐助からしたら眉間が寄るどこの騒ぎではない。
幸村の主に対する中庸精神を断固として貫く態度は周りから賞賛されてしかるべきものだと佐助も思うが、その実直な性格や幼さゆえ兎角感情が顔に出やすい。否、佐助の主の喜怒哀楽は顔だけでは収まらず、口にも態度にも出る。恙無く使者としてのお役を主が果たせるよう下準備しておくのも己の務めと、佐助は諦めの極致で報われない忠義に腰をあげる。
面倒ではあるが、それを怠った後の方が遥かに面倒の比重は上回ると分かっているので、幸村の一の家臣を自負している佐助としては面倒だろうが何だろうが、先回りして避けられる災厄は事前に手を打っておきたいと、行動に出てしまうのはもう条件反射としか言いようがなかった。
「……そーだね。えーと、頑張って金子をはたいた苧麻の素襖は弁柄色だし。宝相華文の小袖も地色が薄紅だったよなー。萌黄の素襖は袖がほつれて直してなかったっけ。しくったなー」
着る物に頓着しない幸村の変わりに、着物を新調するのも専ら佐助の役目であった。贔屓の問屋に通い、主に似合う色味、文様を選ぶ。それなりに偏らずに作ってきたつもりであったが、気がつけば値の張る素材・文様はことごとく紅色系であったらしい。それに気付いて佐助は嗚呼、と天を仰ぐ。
「何だ佐助。色で決めるのか?」
嘆く家臣に幸村が解せないと眉を寄せた。
「無駄だとは思うけどさー、旦那はこの前の合戦で伊達軍の観客付きでやり合ってるでしょ、あっちの総大将と。赤備えが印象付きすぎてるんだよねー。変に周りを刺激しないように念のためだよ。できるだけ赤は避けたい」
色を変えたくらいでは己の主の内側から発せられる覇気ともいうべき精神熱量は隠しきれるものではないが、何もしないよりはマシである。己の悔やむ度合いが後々変わる。
そんなものであろうか?と頭を捻る鈍な主に、もう行って、とぞんざいな調子で厨の方向を顎で指し示す。
臣下の心主知らず……そんな言葉が佐助の脳裏をよぎった。
「では、頼んだぞ佐助!」
幸村はそう言い置いて、駆け出して行った。それを見送って、佐助も幸村の宛がわれている部屋へと向かう。
「とりあえず、お櫃引っ繰り返してこましなの探さないとなー。この前春夏用の着物、天日干ししておいて良かったよ」
こういった家臣の苦労は奥州に着き一刻もしない内に砕かれるのだが、もちろん今の佐助にそんなこと知る由もなかった。





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