にて候、
第一章5



目の前で起きた出来事をさも当たり前と何の感慨も見せず、唖然としていた梵天丸を虎哉が下に呼んだ。
もちろん信玄公に向かって飛び降りた童は、己が師に軽々と受け止められ無事である。
「信玄。これが新弟子の梵天丸。ここでの滞在は療養と修行を兼ねています。とても利発な子ですよ。それと梵天丸、こちらが先に話しました甲斐の当主であられる武田信玄公。この長禅寺では岐秀様を師と仰ぎ共に修行をした仲」
梵天丸ご挨拶を、と虎哉に促され目を上げれば、腕を組んだ甲斐の虎がじろりと鋭い目線を向けた。その貫禄に臆しそうになる己を叱咤し、梵天丸はぐっと眸に力を入れる。
「これまで名乗り申さずに失礼を致した。お初にお目にかかる梵天丸と申す。以後宜しくお見知りおき下され」
虎哉に引き合わされて、梵天丸は一礼した。
面を上げても反らされることのない梵天丸の強い視線に、信玄がくっと唇の端を上げる。
「良い面構えの弟子じゃの、虎哉」
顔は梵天丸に向けたまま、信玄が称した。虎哉はそれに軽く頭を下げる。
「梵天丸と申したな」
「はい」
「甲斐は良いとこぞ。療養も兼ねているというのなら、ゆっくりして参られい」
「恐れ入りまする」
梵天丸の応えに、信玄はうむと頷き、
「若子よ」
隣に控えていた童に、顔を向けた。
「お主らはすでに知り合うていたのだな?」
「はい!某がこの木の上にて足が竦んでおったところ、ご助力頂きましてござります!梵天丸殿、礼も申さず失礼仕った!」
がばりと頭を下げる童に梵天丸は「いや…」と短く返す。
「梵天丸殿がお声をかけて下さらなかったら、今頃それがしは落ちておりましたでしょう。まっこと、かたじけのうござった!」
「いや……アンタに怪我がなくて良かった」
彼を逆上させ、体勢を崩させたのは自分だと自覚のある梵天丸は、深々と礼を述べられ居心地が悪くあった。しかし、信玄と虎哉の手前、大きくそれを否定することもできず、当たり障りのない言葉で返す。ただ、こうも真っ向から礼をもらうことに慣れておらず、どことも知れぬ胸の奥が脈打つような感じがした。
「ともあれ、梵天丸の言うよう怪我がなくて何より。ですが、甲斐の虎をして若子と呼ばれる男子とあれば、さもありなん。嗚呼、そうでした。梵天丸、この虎若子はこのような格好をされていますが、男子なのです。間違いなきようお願いしますよ」
二人のやりとりを微笑ましげに見ていた虎哉が、どこか釘を射すようにそう言った。
「見間違えましたが、もう知ってますよ、虎哉様」
「おや、そうでしたか。なら彼の名がないのも知っていましたか?」
「名がない?」
何を言うのだと、梵天丸は虎哉を見上げた。
「おお!それがしずっと気が急いておりましたゆえ、名がないということを話しておりませなんだ。これもお家代々のもの。失礼致した」
「幼名には悪霊らが忌み嫌う言葉が使われているのは知っていますね」
虎哉が若子の言葉を引き継ぐ様に、梵天丸に言う。
「はい。男子が女子の格好をするのも、悪霊が女子だと連れて行かないからだと聞いてます」
「ええ。この虎の若子に名がないのも同じ理由。存在が無ければ悪霊らに連れていかれることはありません」
「それは……」
そこまで徹底する理由は、と問おうとした時、
「虎の若子。あなたは先だって七の歳を迎えられたとか。梵天丸と同じですね。七つまでは神の子。ふたりともこの秋まで健やかでありなさい」
梵天丸の言葉を遮るようにして、虎哉は言葉を重ねた。
それに訝しく思いながらも梵天丸は師の言葉に頷き、虎の若子は「はい!」と大きな返事をひとつした。
「それにしても、あのような高さまでよく登りましたね。特にこの木は登り難かったでしょうに」
虎哉はゆっくり歩を進めると、他の木とはあきらかに違うつるりとした樹皮を数度撫でた。
「まっこと、登り難くうございました!」
「これは『さるすべり』と言って、猿も滑って登れないと言われる程木登りには適していない木なのですよ」
「どうりで。しかし、どうしても雛を戻してやらなければと思い、何も考えずに登っておりました」
ふさと枝葉を広げ茂る大木を見上げ、虎若子は困ったように笑った。
「若子よ。その雛また落ちていたらお主どうする。またこれに登るか?」
上を見上げていた信玄がおもむろに、虎の若子に問うた。
「また落ちるのでございますか?」
不思議そうに小首をかしげる様が愛らしい。
「そのうぐいすの雛、ほととぎすの雛に落とされたのであろうよ。知っておけい、若子よ。ほととぎすはうぐいすの巣に己の卵を生み付ける。そして孵化したほととぎすの雛は巣にあるものを下に落とす習性があるのだ。お主が危険を冒して助けた雛。また巣から落とされるであろうよ」
さぁ、どうする?と信玄は若子に再度問うた。
簡単なことだと梵天丸は口にはせず思う。邪魔なほととぎすの雛を廃除すれば良いだけの話。しかし、虎若子は梵天丸の道理に合った応えとは余程遠いことを口にした。
「なれば、またそれがしが巣に戻しまする!」
「ほほう、またこの木に登ると申すか?戻したところでまた落とされるやもしれんぞ」
「それもまた同じこと!!何度でもその雛、それがしが戻しましょうぞ!!」
虎の若子は信玄に向き合い、小さな拳を握り締め哮る。
「若子よ。何故にほととぎすの雛を巣から離すと言わん。さすればお主の苦労も一度ですもうぞ」
「巣から離せばその雛は生きてはゆけませぬ!それに今は落とされてしまうような雛であっても、いつかはその雛も空を羽ばたきまする!!双方生かすことが出来るのであれば、それがし何度でもこの木に登りましょうぞ!!」
「さらには、お主の鍛錬になると申すか?」
信玄はにやりと笑って、童を促す。
「おっしゃる通りにございます!それがし、お館様のお手を煩わせずとも、降りれるようになってみせまする!」
「よう申した!!なればその雛、見事巣立ちを終えるまでここで見届けい!!」
小さくも咆える虎若子の勢いのまま、信玄は待ち構えていたかのように気炎を吐く。
「な、なんと申されますか、お館様!!」
信玄の言葉に若子は飛び上がらんばかりに身を仰け反らせ、驚嘆の声を上げる。その様子に虎の目がぎらりと光った。
「今更、厭うか若子よ!落ちた雛を戻すにどこから馳せる気か!まさか我が城からと申すでなかろうな!己が言葉、真実偽りなしと言うなら徹底してやり通してみよ!!」
草木が震えんばかりに一括した信玄が、一歩虎若子に迫る。
「うおおおぉ、それがしの考えが甘うございましたああああぁ!!それがし早速明日にでもこちらに身を置かせて頂きまする!!」
「思い立ったが吉日とはこのことよ!!明日とは言わず、今から用意してまいれ!良いか若子よ!!」
「うおおおぉ分かりましてございます!!お館様ああああぁ!!」
辺りに木霊するほど喚声を交換するふたりを尻目に、虎哉が面白そうに梵天丸に言い聞かせる。
「梵天丸。どうやら今日から3人部屋になりそうですよ」
獅子奮迅を具現化したような甲斐の虎と、一見すこぶる愛らしい童女の組み合わせは、どうにも釣り合いが取れず、ともすれば思わず失笑してしまいそうになるのだが、梵天丸はこれからを思うと嘆息せずにはいられなかった。





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