尊きは白き


百日紅にて候、
第一章外伝_前編



その日、一人の名だたる武将がこの世を去った。



ぐわんぐわんと耳鳴りがする。それは己が地を駆け枝を蹴り、高速で移動している為に耳で風が鳴っているのか、それとも体調の異変からなのか佐助にはもはや分からなかった。
しかし、佐助は足を止めることなく、目指す地へと近づくことだけを考える。
早く。一刻も早く――――!
佐助は頬を伝う涙を拭う手間さえ今は惜しいと、鉛のように重くなった足を前へ前へと押し運ぶ。
息が調わない。
口が開いて喉が乾く。
とうに限界は過ぎていた。主が身を置く越後から故郷上田までまともな休憩も取らずに忍鳥でまさしく飛んで帰り、そして越後へ戻るに、さすがの忍鳥も使い物にならず己の足で駆け戻ることとなったのだ。
季節は厳しく長い冬が到来し、どこを見ても辺り一面が白い雪で覆われている有様。厚い雲が陽を閉ざし、先ほどからちらちらと佐助の視界を雪が遮っていた。
ひゅうひゅうと喉で音がする。
冷たい風が喉元を通りすぎ、肺を凍えさせた。
くずおれそうになる両足に力を込め、佐助は近くの喬木に飛び上がる。
見上げれば山の頂に見える春日山城。
戻ってきた。
ここにきて佐助は涙をぐいと腕で拭った。
そしてまた走り出す。
辺りが茜色に染まりはじめていた。陽も落ちればぐっと気温も下がり、ここは瞬く間に雪に覆われてしまうことだろう。
そうなる前に。否、そんなこと関係なく自分は駆け通さなければならない。胸に預かった真摯な思いを主に伝えるために。



昨日、夜遅く武田が誇る智将真田昌幸が息を引き取った。
昌幸危篤の知らせを受けたのは、主が質として身を寄せる越後は春日山城。身動きが取れぬ主の替わりに佐助は上田へと向かったのだった。
本当は心細かったに違いない。涙を堪えて上田帰還の命を己に下した主を佐助は思い出す。
小さな肩と声は震えていた。
しかしそれを悟られぬようにと体を強張らせる主に、佐助も手を伸ばしたい気持ちをぐっと堪えたのだ。本当はいつものように腕を背に回し、まだ薄い背をさ すってやって思う存分泣かせてやりたかった。きっと佐助がそうすれば、彼は一時の充足を得ることが出来たであろうし、自分も今よりは余程心静かに命を遂行 出来たに違いない。
大丈夫だから。何も怖くない。安心して帰りを待っておいで。
そう言えたらどれほど。
しかし、いつもであれば所構わず涙をみせては自分に縋り付く主が、深く憔悴しながらも自分に命を下したのだ。
主君として。
それは佐助にとって酷く尊っといもので。
その言葉の奥に、いつ厳しい天候に襲われるかしれない極寒の中、急ぎの命を下すことに対しての罪悪も含まれていた。忍以外であれば命を落とすこともあるだろう命を下すことは、幼い主にとってどれほど苦痛なことであったか。
しかし、それを佐助は喜びと感じずにはおれなかったのだ。他の誰でもなく自分であったことが佐助は誇らしかった。
信頼されている。
自分であればそれを成し遂げ、そして昌幸公の最期を看とめることをまかせられると。
そんな主の想いを受け取り、急ぎ上田へと帰省したのだ。
病床であるとなれば本来目通り叶わぬ相手。佐助は真田家次男の家来とはいえ、一介の忍でしかない。いつものように天井に着き様子を伺っていれば、当主直々に声がかかった。久方ぶりに顔を合わせた昌幸公には、もはや払うことは困難であろう死の影が色濃くあった。
その姿を目にし、湧き上がった感情は恩人への深謝であったり、敬愛する当主に対する景仰の念であったり、そして佐助が最も大事と仕える主とを巡り合わせた追憶であった。
自分がまだ5歳になるかならないかの歳、両親が死んだ。詳しいことは覚えていない。両親の顔さえ覚えていないのだ。そんな年端もいかない子供が一人生きて いくことなど出来るはずもなく。自分は大人たちの計らいで上田が懇意としている、近江国甲賀の地に隠れ里を持つ忍者、戸沢白雲斎に預けられることが決まっ た。
自分が望んで忍になりたかったわけでもない、その時の自分には生きるためには忍になるより他に道がなかったのだ。幼いながらも忍とは拷問とも言える厳しい 修行の中、血反吐を吐いて死ぬか、耐え抜いて一流の忍になるかの、どちらかという認識しかなかった。乗り越えた今でさえその認識は間違っていなかったと言 えるのだが、当時の佐助はそんな苦しい中で死にたくはないと、当たり前に恐怖したのだ。
しかし、自分を養う人間のいなくなった今、ここに残ることを選んでもやはり死は身近にあった。結局、白雲斎に従うことになり、上田を出立する前日。上田城主昌幸との謁見があるとのことで佐助は初めて城内へと白雲斎に連れられた。
ただ、困らせてやろうという軽い気持ち。それを見た瞬間、羨望とか嫉妬とかそんな負の感情に支配されての暴挙。もう、どうにでもなれという諦めにも似た傍観者の心境。そんな感情が入り混じって、佐助はその小さな赤ん坊を抱き上げたのだった。



「はぁ…はぁ……!な、情けねぇ…な……!……っ……はあぁ……!」
忍にあるまじき余裕のなさで、佐助は呼気を整える。普段であれば意識せずとも調息が身についているものだが、今の佐助は全身が雪で濡れそぼり白い息を吐いているような状態であった。
春日山城城主の小姓として本丸に居がある主の元へ戻るのに、佐助は大手道、南三ノ丸の脇を通り抜け、井戸曲輪まで一気に駆け上がる。影向松に身を忍ばせたのは、せめて呼気だけは整えてから主の前へと思ってのことだった。情けない姿は見せたくない。
しかし、ここで足を止めてしまったのはただの偶然か、それとも軍神と呼ばれる城主はそれこそ心眼をも持ちえているのか。
「わがしろ、はちがみねへしんにゅうをはたしたしのびよ。ここになおりなさい」
中性的な、しかし凛として響く声がしんしんと雪が舞い落ちる中、身を隠していた佐助の耳へと届いた。
軍神上杉謙信。第二回川中島の合戦和睦の際、真田家次男である弁丸を差し出すよう条件を提示してきた甲斐武田の宿敵ともいえる武将。
当時7才であった主は今や御歳9才。春日山城に住まい2年の年が経とうとしていた。
甲斐は躑躅ヶ崎館より居を上杉の家臣が住まう海津城に移した早々に、春日山城へと謙信の小姓として城に入ることを命ぜられ、佐助は恐慌状態におちいったも のだった。今の御時世、小姓といえば夜伽の相手と言っても過言ではない。主が越後へ行くと決まって、佐助はすぐに上杉謙信なる人物の情報を掻き集めたの だった。
武神毘沙門天を信仰し、類まれな戦略家としての顔だけでなく和歌や楽器にも通じ文化人の顔も持っているという。そして何より佐助を安堵させたのは不犯を通しているということだった。主が質となる先の当主が色狂いでないことに、佐助は胸を撫で下ろしたのだ。
家臣の贔屓目で見ても我が主は愛らしい顔立ちをしている。そのような下種な配慮などしたくもないが、元服をするまでは悩まされ続ける事項なのだろうと佐助 も腹を括っている。そんな矢先での、小姓としての招致。妻も娶らず生涯不犯とは男色、しかも幼児趣味であったかと憤ったのだ。
結果はそれこそ下種な勘ぐりであったのだけれど。
佐助は少しの逡巡ののち音もなく謙信の前へと姿を晒した。今は主が仕えているという意味では佐助も従わねばならない。しかし、いまだ主が心底忠義を誓う相 手が甲斐の虎であると知っていれば、甲斐の重臣である真田昌幸の訃報を上杉に知らせるわけにはいかなかった。それがすぐに知られると分かっていてもだ。
佐助は片膝を着き頭を垂れ、
「猿飛佐助、只今帰参致しました」
従順に帰参の口上を述べた。
「やはりそなたでしたか。たしかそなたはこうかのもの。ただひとりのあるじにつかえるとするならば、いまここはそなたのくにでもあるでしょう。しのぶこと はかまいません。それがしのびのしょうというのなら。しかしすべをもってしてここへおしいることをわたくしはこのみませんよ」
丁寧な言葉の裏側にある険を読み取って、佐助は内心舌打ちする。
この春日山城の侵入の際、数人の警備兵と出くわした。そこを通らねばいいだけであったが、その時の自分は迂回する手間を惜しんだのだ。流石に切り捨てるこ とは躊躇われ、催眠の煙りを流して先を急いだ。その対象が一人であれば、番兵本人の落ち度として揉み消されるのだろうが、数人ともが眠っていれば怪しまれ ることなど想定できていたはず。うかつな自分の行動に幾度目かの遺憾の念が胸を梳いたが、悔やんでいても仕方がない。
「そなたがいそぎうえだへとさんこうしていたのはしっていますよ。そうみがまえずとも、わたくしはそなたをといつめるきはありません。おもてをあげなさい、わこのしのび」
感情の起伏が少ない声音で軍神が佐助を促す。
「申し訳ない~。吹雪きそうだったんで急いでました。にしても軍神様自らがこんなところまで、俺様をお出迎えって、ただごとじゃないよね」
自分の短絡的な行動に気分を害しているものの咎める気のない様子の謙信を見やり、上田帰省のことはあえて触れることはせず、佐助はいつもの少し砕けた口調で謙信の問いに問いで返した。
さっさと用件を聞いて主の元へ急ぎたかったのだ。
「ただごと……そうですね。まいよこのうつくしいはちがみねのゆきをめでながらみきをたのしむひとときが、こもりにかわるほどには……」
軍神というよりは余程雪女と呼んだ方がしっくりくるのではと思わずにはおれない妖艶な微笑を浮かべ、目前の麗人は佐助不在中の主と彼の様子を示唆する言葉 を述べる。それを聞いて、佐助はははは…と乾いた笑いを返した。ということは、我が主はあろうことか謙信公の寝所に入り浸っていたということか。
「なげくほどのことではありませんよ。ただわたくしがあのようなとらわこをはなしがたくあっただけのこと」
謙信はふふと唇に孤を描くと、先ほどと変わって優しい眸で佐助を見つめた。
軍神以外の言葉であれば、佐助は離しがたいと言い切る相手に蔑視の目を向けるところであるが、それに限っては信頼のような同士のような感情を佐助はこの美しい城主に少なからず持っていた。
佐助が当初持っていた下種なかんぐりが徒労に終わったのは、主が入城して五日目の夜のことであった。
小姓の務めと夜の伺候を命じられた主を見送り、まさかという思いで佐助は忍らしく天井に着きふたりの様子を伺った。もしまだ年端もいかない主に覆いかぶさろうものであれば、即刻首を掻き切ってやると殺気立たせて。
そんな、佐助の心情などかまいなく軍神は、長旅は疲れなかったか、越後はどうか、食べる物は美味しいか、困ったことはないか、そういった話をし、今後毎夜の伺候を義務付けた。一日目はそうして終わった。
その日から毎夜、謙信の暇に合わせ主は寝所への入室を強制されたのだが、ほとんどがその日一日主がどのように過ごしたのか話をさせ、それが終われば書物、 読書と勉学の時間になり、主にせがまれれば物語を読み聞かせるという、佐助が想像していた状況の真逆の時間が持たれたのだった。
それが半年も続いた頃には、佐助も気付かずにはおれなかった。彼が主を小姓にと呼び寄せたのも、甲斐から貰い受けた若子に猥雑な輩を近づけさせないためだ と。武士たちの間では既に主君を持つ小姓に手を出してはいけないという暗黙の了解がある。若子を己の小姓として側におくことでそういった輩を牽制したの だ。
忍の己に出来ることといえば、主を守るに出来ることは限られている。下種な輩を排除して回ったところで、確実にその返しをくらうのは主でしかない。この国一の権力者に守られているとなれば、佐助の苦慮は随分軽減したのは言うまでもない。
そういった意味では佐助は謙信に感謝をしていた。
だからこそ、若子が自室に戻らず彼のそばにいたという謙信の言葉に、主の精神状態がただごとでなかったのだということに佐助も気付く。
やはり急ぐべきと、腰を上げかけた。その時、
「わこのしのび。おまえはなぜ、とらわこのそばにみをおくのですか?」
唐突にも思える言葉を謙信は投げかけてきた。
「いきなり何を……」
それに佐助は言葉を詰まらせる。
昌幸との最期の謁見の際、己の生きる希望となった主との出来事を思い出した。それが今また謙信の言葉に佐助の胸に蘇る。
「わこをまもるためではないのですか?」
応えない佐助に謙信は穏やかに、しかし強制の念さえ感じさせる気迫でもって言葉を重ねた。
自分の主に対する忠義にも似た強い想いを彼は知っているはずだった。主を守ろうとする自分の気配を、殺気を、この二年間感じなかったとは言わせない。
「当たり前でしょう……。俺がどれだけ若子様を守ろうとしてきたか。……今まで若子様のためだけに生きてきた……!それを……軍神、あなたは知っているはずだ……」
まだ若い忍は、無意識に寄せていた仰望からの反発と気付かず感情をあらわにする。
最初は誰かのために生きるなんて御免だった。それこそ名家に生まれ、自分が望む前に当然と与えられ、そこに在るというだけで祝福される。そんな人間のために死ぬだなんてまっぴらだと。
辛いという言葉だけでは済まされない修行の中、死んでいった者も何人もいた。もう駄目だと思ったことも一度や二度じゃすまない。そんな時に必ず脳裏を横切ったのは、腕に抱き上げたあまりに小さく頼りないぬくもりだった。
自分は死ねない。
必ず生き延びて。
それこそ草を食み、泥水をすすろうとも。
佐助が絶望の中初めて見たあの光が、陰る瞬間を見るまでは死ぬことは許されないと。
それが、今日まで佐助の命を繋げた。
そんな醜く歪んだ感情は胸底の、きっと彼が自分の目の前からいなくなった時まで開かれることがないだろう闇の中に押しやってしまって、今は唯一と甲賀忍者の属性そのままに己の命を賭して彼の側にいる。
少しの沈黙が流れたあと、軍神が身を翻した。
「ならば、おゆきなさい。ただゆいいつとおのれにちかいだれかをまもるということは、めにうつるものだけではなく、わこをわこたらしめるたましいのきゅうさいをもふくまれるということをわすれてはなりません。しのびであるまえにあなたはひとなのですから」
守ると決めたのならば、体だけではなく心も守れという軍神の言葉に、佐助ははっと顔を上げる。
しかし、その姿はすでに遠く、今更何を言おうともう応えることはないのだと悟った。
それは甘えではないのかと思っていた。
闇雲に手を差し出すことは間違っていると。
自分は忍。彼は主君。
そう思い込むことで、それを喜びと置き換えることで、距離を作ろうなどと。
自分から離れていこうとする主を見たくがないために、そんな姑息なことを自分は思っていたのかもしれない。
成長を成長ととらえず突き放した。
それでは駄目なのだと軍神は言う。守ると覚悟を決めたのならば、全てのものから、それこそ己からも守らねばならないのだ。
花は陽と水があれば育つかもしれない。しかし、それに手を加えるからこそ大輪の美しい花が咲く。
誰かが手を加えてこそ。
それが自分だと言うのだろうか――――?
「……やっぱ、今日の俺様ってイケてねぇー……!」
佐助は小さく吼えると、主が待っているだろう本丸にある部屋へと駆け出したのだった。





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