†††春を待つ†††



「オレはいつまで?」
そう問いかけるのは強い意思を秘めた声音。
黒い双眸は時として禍々しくも深紅に変わることは誰もが知っていること。
しかし、今彼のとろりと光る双眸はいっそそれよりも酷薄で惨憺に見えた。
「決まってはいない。おまえ次第だ。オレは嘘は言わんよ」
対峙する大柄な男は、それが虚偽ではないと言いながら、しかしこの空間がその言葉を裏切っているようだった。
「そうか」
それでも彼は眉ひとつ動かすことなくそう答えた。
絶望の色は見あたらない。
ただ表情のない顔に垣間見えた微笑。
ゆらりと持ち上げられた左手が、自身に向かって閃いたと思った次の瞬間、
血飛沫に赤く染まる。
「やめろッ!うちはッ!」
己を呼ぶ声を遠くに聞く。
これで、ゆけるのだと確信さえともなわせて。
必ず戻ると約したそれに、高らかに宣言した声音が響いた。
もう自分にはそこでしか在ることはないと言い聞かせて。
その時黒い髪と瞳にその紅は、ぞっとするほど艶やかに映えた。
おまえとともにあるために、オレは自分のすべてを失ってもかまわない。


ナルトたち二小隊が負傷しつつも里に帰還したのは深夜遅くのこと。重傷者は医療班と途中合流していたこともあり、そのまま彼等とともに病院へ。
そしてここ火影執務室にはそう重傷ではなかった班員たちが収集されていた。その中には今回のターゲットであったうちはサスケもいる。
ナルトが彼を里に連れ戻すと己に誓った日から数えるとゆうに三年はかかったことになる。任務は成功したのだ。サスケの承諾をもってして。
彼の気持ちがそれを良しとしなければ任務遂行は困難を極め、いつになるかも彼の無事も保証されなかったに違いない。あの日から今まで常に己とともにあった焦燥からようやく開放されるのだ。
そうナルトが思っていた時だった。
先ほどまでにこやかに任務成功の労いを口にしていた五代目火影がデスクに両肘をつき、一変して厳しい表情を見せた。
「そこで、うちはサスケの処分だが」
綱手は一端そこで言葉を区切ると、サスケをじっと凝視した後にナルト、サクラと視線を巡らせた。
処分という言葉にナルトが一瞬反応する。
「うちはサスケの身柄は森乃イビキにひとまず預けることとする」
「何でッ?」
間髪入れずに綱手に向かってナルトは異を唱えた。ここが火影執務室であり、皆気心が知れているとはいえ任務報告の途中であるにも関わらずナルトはたまらず声を上げた。
一歩前へと出たサスケの腕にそれ以上の火影に対する抗議をいさめられる。
「サスケッ」
「うちはの、おまえに異存はないな?」
「はい」
ナルトの前を立つサスケの表情は分からなかったが、その声から動揺や驚愕といったものは微塵も感じられなかった。
いっそ潔いほどのサスケの応え。
「な、納得いかねぇッ!だって森乃イビキっつったらッ!」
そこから先をナルトはこの場で口にすることはできず、己の前に制止するようにとあったサスケの腕を払って綱手の肘を乗せるデスクに両手を叩き付けた。バンッ!と静まり返った執務室に大きな音がひとつ響く。
(森乃イビキといったら、木ノ葉暗部拷問・尋問部隊隊長じゃねぇかッ!)
「何でサスケがッ!」
「落ち着けナルト」
「これが落ち着いてられっかよッ!」
二人のやりとりを班員達は固唾を飲んで見守る。後方から小さな声で「ナルト」とサクラの声がした。
「いいかナルト、大蛇丸が死んだことから奴の新しい体になるという危険性はなくなったが、サスケは木葉に対する危険人物として一度は暗殺リストに載ったこともある。それにサスケは抜忍だ。本来であれば暗部に抹殺されても文句は言えない」
「でも俺達は『サスケ奪還』班として小隊組んで今までやってきたんだッ!それを連れ帰ってきたら拷問にかけるだなんて納得いくわけねぇってばよッ!」
ナルトは激昂して高ぶる気持ちを右手に、デスクへと叩き付ける。今度はバキリと音がした。
「最初はな、それで良かった。しかし状況は変わった。任務遂行がサスケが大蛇丸を殺したすぐ後なら問題はなかったさ」
ひやりとナルトの背を嫌な汗が流れた。
綱手から目を反らしそうになるのを無理矢理押さえつけ、ぎりりと歯を食いしばる。
「うちはサスケはその後、木葉崩しを決行した大蛇丸のその元部下と共に『蛇』と名乗り小隊を組んで行動していた。ここまで言えばわかるな、ナルト。それに今回は拷問ではない、尋問だ」
それに私が良しと言ったとしても周りは納得しないだろう、と綱手は悔し気に低く呟いた。
「でもッ!」
言い方は変われど、内容がそう変わらないことはナルトもわかっていた。
ただ、苦しさを嫌って死を選ぶために真相はどうあれ尋問官の望む言葉を口にするような事態にはならないだろうというだけで。
(サスケは自分の意思で戻って来たのにッ!)
さらに言いつのろうとしたナルトに背後から声がかかる。
「ナルト」
落ち着き払ったサスケの声。
すべて承知の上であったとしか思えないその態度。
ナルトは胸に込み上げてくる熱い感情の断片を、漏れそうになるのを必死で押さえ付けた。
振り返ってサスケの顔を見つめる。穏やかなその表情に突かれたように、ナルトは胸元をつかんだ。
手が小刻みに震えていることに気付く。
「心配すんな」
サスケが低く呟いた。ゆっくりとナルトの方へ近づく。彼の傷だらけの手が近づいてきて、ナルトの頭の上にのせられた。そのまま押されてナルトの視線は床に落ちる。きっと酷い顔をしているに違いない。
そしてそのまま引き寄せられてサスケの肩に額当てがあたった。直接カチャリと音を感じる。
「必ず戻る」
ナルトの耳元で、サスケは短く誓う。その熱のこもった吐息で、ゆるぎない強さで。
ゆっくりとその手が離れていった。
ナルトは顔を上げる。
涙は不思議と出なかった。
しかし熱くも感じるその瞳に力を入れてまるで睨み付けるように、一度ぎりっと奥歯を噛み締めた。
すべての想いを、願いを、この一言だけに込めて。
そして、言い放つ。

「必ず戻れってばよ……!」


通い慣れた足場のぬめる階段をナルトは危なげもなく降りていく。最下層までたどり着いたところで重い鉄の扉を押し開けた。
「……ナルトか?」
薄暗い廊下のさらに奥。格子の中からその声はした。名を呼ぶ響く低音のそれは疲労を色濃くあらわしながらも甘さ含んでいる。
「ああ」
短く答えて、ナルトは声のした一番奥の格子が嵌め込まれた監房へと近づいた。カビ臭い匂いが鼻をつく。じめじめした空気がまとわりつきナルトは不快さに眉を潜めた。
火影の敷地内にある地下の牢獄。それよりさらに地下に存在するここは拷問部屋に最も近い。つまりは拷問を受ける監獄者の部屋であった。
ナルトはその格子の前にひざまずくと、中にたたずむ人物へと手を伸ばす。
「サスケ」
ここにうちはサスケが拘禁されて一月が経とうとしていた。
ナルトは手に触れるサスケの頬をそっと撫でる。そんなことでしかこの男を慰めることができない自分が歯痒かった。
今サスケには、その眼を覆い隠すように瞳術封じの帯が巻かれている。ここに移って直ぐに施されたもので、四半刻しか与えられないこの面会であれ毎日サスケに会いに来るナルトには見慣れたものだ。
しかしサスケの色を奪うものには変わりなく、せめて自分といる間は取ってくれというナルトの願いも、ナルトをその瞳術でもって脱獄の幇助させる恐れがあるという事由であえなく却下された。その時の憤りは今でも忘れていない。
だからナルトは今日も格子の中に手を伸ばす。
多くを語ると後悔であるとか畏怖の言葉がついて出そうになるのだ。
今はこうして穏やかな時間が過ぎているが、それもほんの少しの間だけで、ここを出た後の虚無感には慣れることはなかった。
ナルトは不安で仕方がなかった。
サスケは一度として今の状況を悲嘆したことはない。素振りさえ見せない彼にナルトはようやく自身を保てているような状態であることは分かっていた。自分の身に起こることであれば、これほどまでにこの胸は痛みはしない。
狭い空間での日々がサスケの体力を削り取っていくのが目に見えて分かった。丸みが抜けてしなやかだった体も随分筋肉が落ちたように思う。
ただ変わらないのはその口の悪さと、ナルトに触れる掌のあたたかさだった。
もう一月経つ。まだ一月なんだろうか?
当初サスケには自白剤が使われた。しかし薬類に免疫が強く、どれもこれも無駄であったと聞く。今回の目的は主に尋問であり、拷問の末の死ではない。ただ、彼の類い稀な忍としての力量や畏怖をも感じる血筋から、与えられた待遇がこれなのだ。
本来であればこの格子には結界が張られており、触れるどころか声さえ届かない。だから辛抱するのだとナルトは自分に言い聞かせる。確かにこれが己の忍道を貫き通した結果であると受け止めなければならないのだ。
サスケを里に。それだけを想って走って来た。後戻りをする訳にはいかない。
しかし、小さくも己のもろい部分に引っかかったひとつの光明を捨てることもできないでいるのも事実だった。もしこの忌ま忌ましい帯を解き、今はなくなることのない傷だらけのこの腕をつかんでいってしまえたら。そう思わずにはおれないのだ。
術者でないと解せぬ帯も九尾の力をもってすれば、とそこまで思ったとき、
「考え込むな」
帯に触れたナルトの手がつかまれる。
「サスケ」
「てめーが悪いわけじゃねぇ」
「!」
ナルトはサスケにつかまれていた手を解き、反対にサスケの手をつかんだ。簡単過ぎると思うほどその手は解かれつかまれた。ナルトは確信する。
「サスケ、おまえ手が……」
格子の中から小さく嘆息するのが聞こえた。
「…………ああ、折れてるかもな」
サスケは観念したように、しかし己の現状を他人事のように言った。
その落ち着きぶりが余計にナルトを激昴させる。
「誰がやったサスケ!そいつ許せねぇッ!オレがボコボコにしてやるってばよッ!」
「…………馬鹿が」
言葉の内容はナルトを難じているのだが、その声音は酷く優しかった。だからだろうか、ぐっと胸を突かれた気がした。ぐらぐらと煮え立つような怒りと、吐き気にも似た喉奥の圧迫感。気がつけば握りしめていた己の掌に爪がくい込み血がにじんでいた。
「もう、嫌だっ……。おまえが痛ぇのも、この邪魔な格子も、おまえのその目のヤツもッ」
悔しい。悔しくて、居た堪れなくて涙が出た。痛いのも、窮屈に感じてるのもサスケのはずなのに、飛火したようにナルトを苛む。
間違っていたなんて思いたくない。またサスケとサクラと自分と三人で歩むのだと、それだけを胸に我武者羅に追いかけた。やっと捕まえたと思ったのに。
こんなことになるって分かってたら……!
具体的にサスケの身に何が起こっているかなんて知らない。彼は断固として口を開きはしなかったから。それでも癒えることのない袖から覗く傷だらけの腕であったり、普段の彼からしたらありえない緩慢な動きは、この狭い空間からくる運動不足だけとは到底思えなかった。
そこにきての今回の暴行。気付いた瞬間焼き切れたと思った。
「オレってば間違ってた?なぁサスケ。本当にこれで良かったっておまえは思ってるのか?」
最低な問答だ。無理矢理連れ戻したのは自分。でもそうせずにはいられなかった。だからおまえのせいだと言って欲しい。こうなってしまったことを後悔していると。
サスケの口から。
そうしたら自分は間違いなくここを壊してしまって、この暗い場所から連れ出すのだ。
しかしサスケはナルトの望む言葉を口にすることはなく、見えぬはずであるのに迷いのない動作でその涙をぬぐった。
「答えを出すのが早過ぎんだよ、ウスラトンカチ」
涙で濡れた頬を摘まれる。力が入らないからなのか、そうでないのか、サスケの指はナルトを慰めるように触れるのだ。その優しい接触にいっそう涙が溢れる。
この時ばかりは今サスケの目が見えていなくて良かったと思う。弱音を吐いたあげく泣き付くだなんて格好が悪すぎるではないか。
しかし壊れたように滔々と流れる涙はサスケの手を濡らしても止まない。そんなナルトの様子にサスケはいつもの皮肉な調子で口を開いた。
「てめー泣いてんのかよ。見えねぇのが残念だな」
「なっ」
まさに見えてなくて良かったと思っていたのと、ある種の意味合いを含んだサスケの戯れ事にナルトの涙は止まる。
「こっちは禁欲生活強いられてんだ。あおるなよ」
「……こんな時に何言ってんだってばよ」
口元に笑みのかたちを浮かべたサスケはその指でナルトの唇に触れた。
「てめーが忘れねぇためにだよ。どうせてめーは今オレに悪ぃとか思ってんだろ。そんなものいらねぇ」
「でもオレが無理矢理おまえを連れ戻した。サスケには新しい仲間だっていたのに……!」
「オレに対して悪ぃって思ってるくらいだったら、抱かせろよ。ナルト」
「…………!」
ナルトは一瞬言われた意味が理解できずサスケを凝視する。瞳を隠すために覆われた帯のせいでその真意ははかりかねた。
「オレはおまえを抱きたい」
サスケはさらに言葉を重ね、ナルトの迷いを確信に変えさせる。
「サスケ…………」
「幻術でもなく分身でもなく、おまえ自身を」
あえてナルトが触れていなかったあの時の葛藤。サスケが忘れるなと言い詰める。
「こんな時でもねぇと一生言わねぇかも知れねぇからな」
「無茶苦茶だっ、サスケはっ……」
「てめーには言われたくねぇ」
自覚のあるナルトはそこで口をつぐむ。
「考えとけよ、ナルト。だからその間はここには来るな」
「………急に、何言ってんだってばよ。サスケ」
一変したサスケの様子にナルトは今までの戯れ事は、これを言うための前触れだったのだと気が付いた。
「嫌だ……!」
即座にナルトは否を唱える。
「いいからてめーはもう来んな。それとも今ここで抱かれたいか」
「ふざけるなよ、サスケ!そんな急に言われたって納得できねぇっ!」
「理由を言えばてめーは大人しく言うことをきくのかよ」
一歩も引こうとしないサスケの言葉に、ナルトも負けじと声を張り上げる。
「それはオレが決めることだろ!」
小さくサスケが嘆息した時だった、
「時間だ、うずまきナルト」
入口の方から監視官の声がした。
すでに与えられた時間は過ぎてしまっていたらしく、つかつかとその男はナルトの元へと歩いて来る。それを横目にナルトは格子を両手でつかんでサスケに向かって声を上げた。
「明日も絶対来るからな!」
「ナルト」
「おい、出ろ!」
腕をつかまれ引きずるように立たされる。
「サスケっ!」
サスケからの返事はなかった。
「サスケェ!」
「静かにしないか!」
さらに力を入れて腕を引かれる。遠ざかっていく格子の奥を見つめながら、ナルトは嫌な予感を覚えずにはいられなかった。





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