指針の軸、氷の棺



(もうすぐだ……)
十年前にも彼との約束を果たすため、一人通り抜けた森をサスケは音もなく駆け抜ける。目指す先から大量の水が音を上げて落ちる気配がかすかにした。
サスケは今だ痺れる左腕に注意を向ける。思いがけず強く打たれてしまったが、大きな外傷もなく事なきを得たのは幸いであった。そして、この程度の負傷を負わすのがやっとの力で、よく大きな口を叩いていたものだと昔の自分を嗤った。
(そんなだからおまえはナルトを失うんだ)
どちらともなくサスケは嘲る。しかし、この結果がナルトを救うのだと思えば、十八という見てくれだけで強さを伴わなかった己に感謝をしたいくらいだ。
用意した心臓はどれも受け付けなかったナルト。まるで九尾が彼以外の細胞を拒むかのようだった。
ならば、どんな心臓であれば受け付ける?誰の心臓であれば正しく鼓動は打ちつける?
ナルトはもう『ナルトの心臓』しか受け入れないのではないか。そう思った時、深く暗い絶望に苛まれていたサスケの心に光明が差した。ナルトの心臓でしか生という役割を果たさないというのであれば、『ナルトの心臓』を用意すればいい。それはどこから手に入れればいいか。
ナルトの失われた心臓の代わりに、過去の時間を生きているだろう『ナルトの心臓』を。
ナルトを殺して、そうしてナルトを救う。
馬鹿げている。この感情は異常だ。それでも強く突き動かすものがある。急がなければならない。時間はそう残されてはいないのだ。ナルトの命を細くも繋ぐ人工心肺装置も長時間の使用はできない。低体温、抗凝固剤の大量使用、循環血液量が一定であるという状態は非生理的過ぎる状況だ。いつどんな影響が出てくるか。
サスケの選ぶ道はひとつだった。
時空を超える術は禁術であったが、今の自分であれば造作もないこと。そしてそれを決意し実行した時、まずサスケは彼の心臓を奪う前に確認しなければならないことがあった。もしサスケの思惑が外れ、時空の理りが輪となり、寸分の狂いもなく回っているとしたら絶望的であったから。
賭けで彼の命を奪い、最愛のナルトの存在が消えてしまうようなことは絶対に避けなければならない。
そう、サスケの降りたこの時が、本来のサスケが在るべき時と繋がっているのかどうかを確かめなければならなかったのだ。
この時を生きるナルトに会う前に、サスケは過去の自分に会いにいった。もしこの時が繋がっているならば、過去の自分に与えた記憶が、今の自分になんらかの影響を及ぼすはずなのだ。
そして、この世界とサスケの世界は別物であると確信する。
なぜなら自分はナルトの誕生日であったその日、暗部の男になど出会わなかった。あの日自分はナルトとの約束を果たし、勝負をしたのだ。ましてやその男に襲われ無様に倒れてなどいない。
憂いはなくなった。サスケを抑制するものはなくなったのだ。
あとは彼が持つその心臓を傷つけず、細心の注意を払い持ち帰るだけ。そうサスケが暗くも心を決めた時。
(……!)
かすかに馴染みの気配を感じた。胸がざわめく。無意識にも愛おしいと感じてしまう己をサスケは叱咤した。
(まだ覚悟を決めれねぇのか)
今までにないほどサスケは緊迫した状況にいた。目的の場所に近づくにつれそれは酷くなり、サスケは迷いを振り切るようにさらに駆ける足を早める。
緊張、戸惑い、躊躇い。嫌、これは恐怖に近い。
(思いとどまればナルトは死ぬ、オレはそれが怖くてたまらないんだ……)
サスケははっきりと感じるその激情を、気付かぬうちにそう切り替えていた。
覚悟を決めろ。彼を手にかけることを恐怖してはいけない。戸惑ってはいけない。一寸の隙でもあればそれは必ず成さねばならない思いをも弱化させる。
何をとしても、何を犠牲にしても。例えそれがナルト自身であったとしても、自分をそばにと望んだ彼を取り戻さなければならない。
(すべてはナルトのために……)
決意新たにサスケは森の出口目がけて走り抜けた。一気に視界が開ける。随分前から耳についていたドウドウと水の流れる音が一際大きくなった。そこは終末の谷。
サスケは足を止める。
左手にはうちはマダラを、右手には千住柱間を仰いだ。その向かい合う彼らの頭上近くを陣取り、見上げたサスケを見下ろすのは、本日十八の歳を迎えたうずまきナルトその人。
サスケの胸に痛みに似た感情が押し寄せる。自分のよく知る彼より幼い。線も細く感じる。
しかし、意志の強そうなその瞳がたたえる色は何よりもサスケが望んだ色合い。
焦がれていた。何よりもその色を愛した。それがすぐそこに、ある。
「遅せぇってばよ、サスケェ!」
そしてやはり変わらぬ声が、ようやく自分の名を呼んだのだ。
震える。心が。
それはナルトだと、認めてしまいそうになる。


あれは、違う…………!


「遅せぇってばよ、サスケ」
目の前の男は自分を呼び出し、たいして待ってもいないくせに「参りました」の一言もサスケに言わせぬまま、開口一番そうなじった。
行儀悪くもデスクに腰をおろし、言葉の内容のわりには上機嫌な様子で六代目火影はサスケを部屋へと迎え入れた。デスクに手を付いたその側には高々と積み上げられた書類の山。その多さに今日も火影様は夜更けまで残業かとサスケは思う。
暗部特有の狐の面を付けたサスケは火影の難癖をさらりと聞き流し膝を付いた姿勢で、
「何かご用でも、火影」
まるで用がなければ呼ぶなと言わんばかりの声音でそう答えた。夜の誘いならば何を蹴倒してでも馳せ参じるサスケであるが、昼間のましてや火影執務室に緊急でもなく呼び出されるということは、何か良からぬ悪戯を思い付いたか。目前の男をちらりと見遣り、もう自分に回ってきたのかとサスケは心の中で嘆息する。
ここで勤めを果たすたいていの忍はこういった火影の接見とも、暇つぶしとも言えるような被害にしばしばあっていた。「交友関係のコーチクだってばよ」というのが火影の言い分である。
胡乱げな視線をナルトに送りながらサスケはおもむろに立ち上がる。それに続くようにナルトはぴょんとデスクから降りると、
「ちょっとそのままな」
サスケにそう前置きし、部下の思惑も知らぬ存ぜぬでつかつかと近づいて来た。首筋を覆う彼の金色の髪が、軽い足取りに合わせて揺れる。
「火影。オレに遊んでいる暇はない」
「違う、違う。これも業務をエンカツに進めるための細事なんだってばよ」
サクラあたりが使いそうな台詞を単調な調子でサスケに聞かせ、後ろに回ってきた彼は面を留める組み紐に手をやろうとした。ほどかれる前にその手をやんわりつかみ、サスケはいたって真面目な調子でナルトに進言する。
「今は任務中ですが?」
サスケの声の響きに変わりはなかった。いつもの淡々とした口調だ。しかし、つかみ取ったナルトの手の平に親指を潜り込ませ握る手つきはなんともイヤラシイ。
「この場合それはオレの台詞だってばよ」
このムッツリめ……と小さくナルトは毒づくと、指を絡ませ始めたサスケの手をぱしり跳ね退ける。そうして結局は抵抗をしなかったサスケの面を取り上げた。面をしている時、サスケは左目を覆う眼帯をしていない。
「これこれ」
ナルトはそう言うと面を裏向け右の端から金具で留められていた紐を取り外してしまった。
「おい、何する気だ」
「へへこれもーらい。こっちは返すってばよ」
片手で面をサスケに放り投げ、ナルトはにっと笑んで見せると指に絡めた紐をゆらゆら振った。
「仕事がー、はかどらねぇんだってばよー」
ナルトは随分伸びていた髪を不器用な手つきで束ね始めた。悪態を付きながらもどうにか後ろで縛る。金色の髪に赤い組紐がとても良く映え、サスケは新鮮なものを見る目でナルトを見つめた。惜しむは彼の髪の長さよりも結った紐の方が長いことか。
「これでよしっと!」
「てめーは良くても、オレははかどらねぇどころか仕事にならねぇ」
サスケはもはや役目を果たさなくなった面を見下ろし、低く唸る。
それと見ただけで暗部と分かる装束に素顔でいるヤツはいない。何のために暗躍をもっとうとする部隊であるか。
「だってさー、ここがこうばーっとなるから凄ぇ邪魔ってか、うっとおしいってか。気になって気になって仕方がなかったんだってばよ」
手振りを見ていないと理解できないような言葉と感嘆詞でもって、歴代の火影様は己の職務の進みの悪さを言い訳する。
「んな理由で任務に精を出してる部下を呼びつけんじゃねぇ。だいたい邪魔なら切っちまえばいーだろうが」
「うるせーってばよ。オレぁ、ワイルドな火影様を目指してんの。やっぱ火影ともなると目立たねぇとな!」
「十分騒がしい色合いだろうがよ、てめーは」
唐突に髪を伸ばすと言い始めた経緯が、彼の恩師を真似しての事と知っているサスケであったが、どう見ても彼の目指す先にワイルドやら猛々しいという表現は見当たりそうにない。
現に今、落ち着きのない彼に合わせて揺れる組紐は色もあいまって、彼を華やかに見せていた。これから任務に戻るにも彼のお陰で一苦労しそうであったが、存外に愛らしく見えた恋人にサスケの機嫌も浮上する。
口悪く言いながらもナルトを見つめるサスケの瞳は穏やかで優しげだった。
「せっかく部下思いの火影様が、誕生日くらいは仕事を早く終わらせてやろうって思ってたのに」
サスケの同意を得られなかったナルトはむーっと唇を尖らせる。彼のその言葉を聞いてサスケは「……ああ」と、今思い出したというように小さく声を上げた。面を使い物にならなくしてくれたのも、そういうことかと納得する。
「昨日までは覚えてたんだがな」
他人事のように言うサスケにナルトは呆れたように唸る。本人が覚えてなければありがたみも何もあったもんじゃない。
「んな他人事みてぇに」
「実際他人事みてぇなもんだ。オレはお前の誕生日くらいしか祝う気ねぇからな」
さらりとナルトを赤面させるに十分な言葉を吐いたサスケは、やはり見た者が赤面したくなるような笑みを浮かべる。
「で、もちろん誕生日というからには何か用意してんだろ、ナルト」
サスケはナルトのすっきり伸びた襟足の後ろで揺れる組紐に手を伸ばす。ついで赤くなっている頬に触れた。
「ここまでしてやったオレに対してまだ何かたかる気かってばよ」
照れているのか低く唸るように返すナルトにサスケは込み上げる笑みを我慢する。
「てめーはオレから面紐を奪っておきながらどーゆう言い草だ。まぁ、何もないならないでかまわねぇよ。結局てめーは誕生日だろうとそうでなかろうと、オレの一番欲しいものを持ってるからな」
暗におまえさえいればいいとも取れるサスケの台詞に、ナルトはそれに気づいてか気づいてないのか、はにかむように、しかし親愛の情がはっきりうかがえる声音で、
「オレも、いつもそー思ってるってばよ」
と、今一番サスケが望んでいた言葉を、彼の耳元でささやいたのだった。


次のおまえの誕生日には何を贈ろうか―――?





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