指針の軸、氷の棺



「暗部の方がここに何の用ですか?……あら、あなた怪我してるのね」
女は臆することなくサスケに話しかけると、部屋の中へと入って来た。前袷せの淡いピンクの夜着に肩掛けを羽織った格好は眠っていたと言うより、病に臥していたように見える。しかし、彼女のたたえるおおらかな雰囲気が、病人とするには違和感を感じさせた。
不躾なサスケの視線を気にもせず、緩やかな歩みはサスケのすぐ近くで止まる。酷い有様の自覚があるサスケはまったく危機感のない相手の様子に唖然としながら、その余裕にも感じる彼女の振る舞いにもう忘れてしまったに等しい母を重ねていた。
「手当てをしてあげる。とても痛そうだわ」
女の手がサスケに伸ばされる。
「オレに…触るな」
それをとっさに避け視界に入った己の手に、犯した罪と絶たれた切望を思い出す。流れ出ていた血も乾き黒みを帯びた赤が、サスケの肌や服を彩っていた。
「触らなきゃ手当てはできないのよ。そんなどこもかしこも痛そうな顔して」
「さわ…るな……」
なおも伸ばされた手に今度こそ腕をつかまれた。
「あなたに良いものを見せたいのよ。その手じゃ触らせてあげられないわ」
「いい…そんなもの」
「そんなものって、見てもないのに失礼な人!でもいいわ。今日、私お母さんになったのよ。男の子が生まれたの」
女はその勢いのままサスケを隣接した部屋へと連れていく。殺風景な部屋であったが揃う家具は皆上等で、長く使われてきたことが分かる風合いがまた落ち着いた空間を作り上げていた。その中でさえサスケの心に感じ入るものはない。ただ先ほど迷い込んだ部屋はこの部屋からすると隠し部屋にあたるようだった。窓も なにもない部屋に突如として現れたサスケを恐れるでもなく、始終態度の変わらない相手は手当てまで申し出た。
「おまえはオレが怖くないのか?」
まるでサスケがここにいることを知っていたかのような。
「どうして?木葉の忍が傷ついてるのを見過ごすことはできないじゃない。それにあなた男前だし。あ、でも私の旦那様は里一番の美男子なのよ」
そうサスケを褒めながらもさらっと惚気を言った彼女だったが、その言葉にそぐわぬ表情をほんの一瞬サスケは見たような気がした。
それからの彼女はせわしなく口を動かしながらも、サスケの傷口を洗い消毒し、ガーゼを当てた上から器用に包帯を巻く。特に酷い手やこぶしには、ゼラチン質の膜で保護するスキンシートをガーゼの下に当てられた。
優しい手。母になったばかりの彼女は、その表情、指先、体温、何もかもが暖かさに満ちていた。
自分との温度差に苦しいものを感じる。早くここを出てナルトの元へと帰らなければならない。そう思うのに、
「これは、自分で傷つけたのね」
女は包帯を巻き終えたサスケの右手を優しく包み込んだ。
「何があったのかは知らないけど、こんなになるまで自分を傷つけて。あなたを大切に思う人が悲しむじゃない」
子供をあやすような声音。言い当てたその言葉が、なぜこの手を彼の血で染めることとなったかを思い出させる。
閉じられた瞳。青く透ける肌。応えることのない指先。
「…あいつが、悲しんでくれるんだったら、オレはいくらでも自分を傷つける。あいつが少しでも感情を動かしてくれるんだったら……オレはなんだって……」
サスケの顔がくしゃりと歪む。それを隠すように片手で顔をおおった。指先が額に巻かれた包帯に触れる。
「泣かないで」
「……泣いてない」
「そうね。男は嬉しい時以外泣いちゃいけないわ」
「……あいつもそう言いながら…悔しい時も悲しい時も、いつも泣いてた」
「そう、駄目な子」
「ああ。でもオレはあいつ以上に……忍らしい忍を知らない」
己の忍道を貫き、恐れず前を向いて突き進む。その背にどれほどの荷がかせられようと、その腕に抱いた守るべきものを手放したりはしない。
そんな彼を守っているつもりでいた。いつでも、どんな時でも。なのに、
「大好きだったのね、その子のこと。何があったか教えてくれる?」
サスケは彼女の穏やかな問いかけに、静かに頷いていた。


ゆっくりと息を吐き、高まる情動を懸命に押さえる。言葉にしてしまえばどれだけ自分が追い詰められ、不安定であったか気付いた。話せば楽になるだなんて嘘だ。今また込み上げる愛しさと絶望に、もう前には進めないと空洞になった胸でそれだけ思う。
「……ナルト。オレはおまえを助けられないまま、戻って来て……」
競り上がってきた鳴咽をサスケはぐっと堪えた。にぎりしめた手が震え、なげく心がすべて吐き出して楽になってしまいたいと叫ぶ。
隣で静かに相槌を打っていた女が、包帯を巻かれたサスケの拳にそっと手を置いた。
「……あなたはまだ、戻ってないわ。それにまだ道は残ってる」
女の言葉にサスケは驚いたように顔を上げた。それに淡い笑みで返し、女はすっと立ち上がる。隣の部屋で赤ん坊が泣き出したのだ。
「ちょっと待ってて」
そう言い置いて女は部屋から出て行った。柔らかそうに背中を流れる赤い髪がサスケの視界に入る。
ややして、御包みに大事そうに包まれた赤子を腕にかかえ女が戻って来た。なんとも愛おしそうに我が子を見つめながら。
その時、御包みから淡い金髪が見えて、知らず目線が彼女の腕に抱かれた赤ん坊へと吸い寄せられ、
「……あ」
驚きに声がもれる。
「可愛いでしょう」
隣へと腰を降ろした女は、赤子の顔が見えやすいようにサスケへと向けた。
確かに愛らしい。丸い頬。小さな手。こんなにも小さく頼りない命は初めて見るもの。しかし、閉じられたまぶたの下の色をサスケは知っている。
そこには、自分が唯一愛した青が隠れているはずだった。
「あ……ナル……ト……」
間違えるはずがない。自分が良く知る彼の髪の色より幾分か淡いそれは、初めて出会ったときにも名残りのあった色。生まれたときからあると言い張っていた頬に走る六本の痣。間違えるはずが……。
「そう、ナルトっていうのよ。あなたのナルトと一緒ね」
ふわりと微笑むのは遠い昔失くした母の面影。

―――だから、私が助けてあげる。


「あんたは……」
言葉がつまる。
押しとどめる間もなく込み上げてきた衝動をサスケは顔を伏せて隠そうとした。
しかし、嗚咽のように喉から漏れる声はもう自分ではどうしようもなく、ただ任せるままに涙を流した。
「わたしはクシナ」
その名を知っている。何度も聞いた。
「今日ナルトのお母さんになったの」
会ってみたかった。言いたいことがあった。
「大丈夫。ナルトはわたしが助けられるわ」
とても、言いたいことが……。
その瞳の強さが今どうしても彼を思い出させて、
「ありがとう。あなたのような人がナルトの側にいてくれて」
優しい声が揺さぶりかける。まだ、顔が上げられない。子供のように涙を流す自分を包み込むあたたかさが、まるで甘やかすように。促して、
「……ありがとう」
言いたかった。なによりも、あなたに。
「あいつを生んでくれて……ありがとう……」
だから、出会うことができた。だから今、自分は生きている。ずっと感謝の言葉が胸にあった。なのに、
「ごめん。……一緒に…いさせてやれなくて……」
さらに涙があふれた。
この瞬間、ナルトからは暖かな母の手を。クシナからは可愛い息子を奪ったことをサスケは知った。
なぜ、ナルトの母親は彼の目の前からいなくなったのか。生まれたばかりの、すでに父親もいないたった一人の息子を残して。こんなにも愛おしげに己の息子を抱く彼女がなぜと、誰もが思ったに違いない。
それを知る者はいない。なぜなら、それは……。
「謝らないで。あなたがナルトから心臓をすぐに奪えなかったように、わたしも息子をみすみす見殺しになんてできないの。どこで生きていても、ナルトはわたしの可愛い息子だわ。大丈夫。わたしの心臓はナルトを救ってくれる」
心配しないで、大丈夫だから。

―――ナルトは死なせない。

その言葉を何度心に思ったことか。何度心に……。
果たせなかった思いは彼女に引き継がせてしまった。
「ごめん。オレが話さなかったらあんたとナルトは一緒に暮らせた。あいつもずっと一人じゃなかった……」
きっとそんな未来はない。彼はずっと一人だった。しかし、言わずにはおれないではないか。
「未来は繋がっているんでしょう?あなたの知るナルトがずっと一人だったというのなら、ここでこの子とお別れなのは必然なのよ。自分を責めないで。あなたは悪くないの。私はナルトの母親よ。可愛いこの子に何もしてあげられないことほど辛いことはないわ」
微笑む顔はナルトに向けられ、あやすように体を揺らす。
「……ありがとう」
サスケはゆっくりと顔をあげた。ゆがむ視界に母子の姿は儚く、しかし眩しかった。
「それにこの子はいつかあなたと出会うでしょう?」
「ああ、アカデミーで……」
「そう、それまでは寂しいかもしれないけれど、この子なら大丈夫ね」
なんたって四代目火影の息子なんですもの。そう誇らし気に母親は歌うようにささやく。
「今日ね、この子と四代目が木葉の里を救ったのよ。火影として、ここを愛する忍として、命をかけたの。だから私も彼の残したたった一人の息子のために命をかけるわ」
母とはなんと優しく強いものか。迷いのない言葉がサスケの胸を叩く。何度となくサスケを導いてきた彼と同じ強さで、同じ優しさで。二人の意思は間違いなく真っすぐその血とともに引き継れている。
燦然たる光を放っていた彼を思い浮かべた。愛しい光だ。
「あんたの息子も火影になる……。木葉だけじゃない、他の里まで救う火影に……」
「そう、嬉しい。さすが私たちの息子ね」
そう言ってはにかむように笑った彼女は、化粧などほどこさずともどんな美女にも負けぬ美しさを持っていた。そしてその透明な空気で包みこみ、流れる髪を優しい帳にナルトの額に彼女は口付ける。
「愛してるわ、ナルト、ミナト」
永遠を誓うようにクシナは目を閉じた。その光景をサスケは瞳に焼き付ける。
「必ず伝える。あんたがどれだけ息子を愛していたか。どんな思いで離れることになったか」
「ええ、必ず伝えて。わたしが、ミナトがどれだけこの子の誕生を心待ちにしていたか。どれだけ愛していたか。あの子は私の決断を知らなければならないの」
クシナは強い決意を秘めた瞳をサスケへと向ける。それにサスケは静かに頷いた。
「ありがとう。あなたには辛い思いをさせてしまうけれど。これからもナルトのそばにいてあげてほしいの」
事実を話すことでナルトが傷つき、サスケを恨むことを危惧したクシナの言葉だった。それでも側にいてほしいと願う彼女の想いをサスケは真摯に受けとめる。
なぜ、母の命を奪ったのだと、どれだけそうナルトに罵られようと、恨まれようとサスケは己の選択に後悔はしないとかたく誓う。彼女の手を取らずにはおれなかったこの想いを、クシナの想いを何度でも伝えよう。どれほど辛くとも、彼を永遠に失うことに比べればすべてがたやすいと思えるから。
「あなたの名前を聞いていいかしら?」
光を取り戻したサスケの黒い瞳を真っ直ぐにみつめ、クシナが問う。
「オレは……うちはサスケ……」







カプセル状の冷却装置に寝かされた体から無数に伸びる細い管が、ぐるりと囲むように設置してある機器に繋がれ、眠る彼はあたかも蜘蛛の巣に捕われた蝶のように見える。
「ナルト、目を覚ませ」
低くく穏やかな声が、覚醒をうながす。
「ナルト」
何度も呼んだ。聞こえているなら、目を……。
その時、かたく閉じられていたまぶたが震えた。
「……ナルト」
薄っすらと開かれた隙間から望んでやまなかった青が見える。そして、
「……サ…スケ?」
ようやくこの名を呼んだ。
「長い…夢を見てたってばよ……」
「ああ、オレも……」



あなたに見せたかった。この綺麗な青を。



あなたに聞かせたかった。母と呼ぶ彼の声を。




END


イラスト:fuwapiyon_ピヨン様



ここまでお付き合い頂きありがとうございました。
しんみりしちゃいましたが、自分のなかではハッピーエンドです。
サスケ→→ナルトといいつつ、実はクシナさんを書きたかったのでした。
クシナさんがどんな理由でナルトと離れることになったかが、公式で分かる前にしか書けないお話でした。捏造もいいとこですね。
実は、クシナさんはサスケと会う前にナルトに会っています。クシナの心臓で命を取り留めたナルトが時空をさかのぼってサスケに会う前のクシナ(妊娠中)に会いに行ってるんですね。不審な人物の言う事をきくなと忠告をしに。そのことがあるからこそ、クシナはサスケの言葉を信じ、未来からナルトが来ることで彼の生を確信していたと。
これを話しに入れ込むと、ナルトが助かったあとのサスケとのいざこざを書かないといけなくなり、ながーくなりそうだったのでここで補足でした。スミマセンorz
母が子に対する愛情を書きたかったのですが、上手く伝わりましたでしょうか……。





←指針の軸、氷の棺_4
←戻る