時化るは奥底の_後編



その日は不思議と風が凪いでいた。意識していれば規則的に告げる波の音が今日は聞こえない。熱にうなされ引きずりこまれるようにして眠る日はすでに過ぎ、ここ数日は時計が時を刻む音に近い思いで波の音を聞いていたサスケだった。
痛みはすっかりなくなったとはいえ、動き回ることはまだ難しく十分過ぎる睡眠を取れている彼にとって、規則的に耳を打つそれは毎夜彼を苛立たせている要因でもある。
(明日にはもう出れる)
薄い掛け布団にくるまりながらサスケは己の体を意識させる。
指、腕、足先、足。問題はなさそうだ。強い衝撃さえなければ、痛みも感じることはないだろう。しかし、喉と肺は少しばかり治りが悪いように感じたが、たまに込み上げる咳のせいだろうと結論付けた。
ナルトは日々、森に入っては修業をしているとカカシやサクラに聞いた。
サスケはまだナルトとは顔を合わせていない。同じ家にいるのに薄情だ、とサクラが憤慨していたがサスケはそれに応とも否とも答えずに、ただ話しを聞くにとどめていた。
あまり反応を返さないサスケにサクラも気を使うのか、それとも居心地が悪いのか、早く良くなってねと一言の残してサクラはいつも早々に部屋を出ていく。
(薄情……か……)
サスケはぼんやりと天井を見上げながら、セル仲間の言葉を反芻する。
(違うな……)
ナルトのそれを薄情というのなら、カカシがあそこまで気にかけたりはしないだろう。
サスケは手の平を上に向けるようにして、額の上に手を置いた。目覚めてからの苛立ちがもうずっと収まらない。思うように動かない体は忌ま忌ましく、まだ来ないただひとりの人の訪問を待っているような心境にも納得しかねていた。
先日もつい、いらぬ言葉をカカシに吐いたばかりに、知らなくてもいいような彼の過去を覗いてしまった。それに伴ったのは残された者の憐憫。自分にもあるものだ。しかしそれはとうの昔に重く暗いものに変わってしまってはいたのだけれど。
サスケは眠ろうと目を閉じた。眠気はないけれど起きていても何もすることがない。ちょうど波も凪いでいる。動き出すのは明日からと心に決め、軽くかけていた上掛けを胸元まで引き上げた。
その時、部屋の前で微かに気配がした。条件反射のようにため息が出たのは仕方がない。間違いようのないその気配は、ここずっとサスケの思考を占めていたその人。それを意識した途端、急に騒ぎだした胸に手をあて半身を起こした。
(なんだ……?)
吐き気にも似た感覚を与える胸の鼓動にサスケは眉を寄せる。不快という言葉以外に他の言葉は見つからなかった。深呼吸を二度ほどすればどうにかそれも収まり、サスケは今だ迷惑にも部屋の前で、入るか引き返すかを迷っているセル仲間の名前を呼んだ。
その数秒あと恐る恐るという体で、ナルトが扉の隙間から顔を出す。部屋の明かりを落としている為、サスケの姿をみとめてからもナルトはこちらを伺っているようだった。
サスケが体を起こしていることに気付いたナルトが、どこか遠慮するような声音で入室の是非を問う。それに応えれば、やはりいつもよりよそよそしい様子でナルトが近寄ってきた。
ストンと座った目線の位置は、そうサスケとは変わらず、しかしさ迷わせて定まらないそれはスケが写りこむことを拒否していた。
何のためにここに来たのか。知らずまたため息が出そうになり、吸い込んだ空気をゆっくり吐き出した。この様子であれば最初にサスケが拒めば、ナルトは部屋にも入って来なかったかもしれない。しかし、ここで彼を避けることは逆に意識しているということをあらわしているようで、サスケは不快な胸の鼓動には蓋をして、その元凶とも思われるナルトを招きいれたのだ。なのに、座ったはいいが、なかなか口を開こうとしないナルトの様子に、今まで常にあった苛立ちがまたふつふつとわきあがる。
「ナルト、用がないなら出ていけ。もう見舞ってもらわなくても明日には動ける」
思っていた以上の冷めた声音に、サスケは舌打ちしたい心境にかられる。今ナルトの前であからさまに感情を表すことはしたくなかった。
何故自分はこうもナルトに己の感情を知られたくないと思うのだろう。常に優位に立っていたいという、相手を意識しないと成り立たないような感情は今までサスケにはなかった。常に成績は文武共にトップであったが誰かを蹴倒してトップになりたかったわけじゃない。己が思うままに行動し、それを積み重ねてきた結果そうなっていたというだけだ。だからこんな感情は慣れない。自分はきっと戻りたいのだ。何にも意識を反らされず、ただあの男だけを盲目的に見据え、邁進していたあの頃の自分に。
「話しは……あるってばよ……」
彼にしては歯切れの悪い言葉が発っせられた。サスケはナルトから目を反らさない。苦手とするものから逃げをうつような真似はしたくなかった。反対に常であれば痛いほど自分を真っ直ぐ見据えてくる少年が、目を伏せ項垂れる様はサスケの目を引くものでもあったのだ。
「話しがあるんだったらさっさとすませてくれ」
存外に早く出ていけとにおわせ、それでもサスケはナルトの言葉をじっと待つ。
自分から話題をふることはしない。彼から踏み込んできたのだ。あの件に関してナルトが腹を立てていようが傷付いていようが、サスケには関係がない。許しを請おうとも慰めようとも今のサスケが思うわけがなかった。常にない感情を誰かに向けるなど、したくはない。特別な感情なんて邪魔にしかならないのだから。
「その傷。跡に残ったりすんのかな」
「……知らねぇよ」
本題の前フリのようにナルトが意味をなさない言葉をつづる。サスケの素っ気無い応えに「そうだよな」と相槌をうち、また口を閉ざした。きっと問いたいことは別にあるんだろう。
しばらくしてナルトがぽつりぽつりと、しかし思ったよりもしっかりした声音で言葉をこぼし始めた。
「オレ……サスケが寝てる間、ずっと考えてた。足引っ張られること嫌いなお前が、何でオレなんか庇ったのかなって。ずっとそればっか……」
サスケもずっと考えていた。何故自分の命もかえりみず彼を庇ったのか。それに答えはまだ出ていない。
「考えて考えて。悔しくて情けなくて。強くならねぇとってがむしゃらに修業して。でもやっぱりサスケはサスケだからオレにお前の考えてることなんて分かんなくて……。あの時どう思ったかなんてさ……」
そこでナルトはゆっくり息を吐き出した。まだ目は伏せられている。サスケは吸い寄せられるように目線をはずせないでいた。
「だったら…オレならどーするだろうって考えた。あの時、倒れてたのがサスケだったらって。そしたら簡単に答えはでたってばよ」
深呼吸。小さく感じる体が震えたような気がして。
口許しか見えないけれど、十分だった。

―――オレも迷わず敵の前に出てた

ゆっくりとナルトが顔をあげた。外せないでいた目線が少しのズレもなくかちあう。
ドクンとサスケの胸が音をたてた。
いつもと違った困ったような笑みを浮かべて、彼がはっきりとそう告げる。

大切な仲間を見捨てることなんてできない

胸が痛む。息苦しいと。
しかし、それは決して不快に感じるものではなく。じわりと熱が広がって充たされる感覚。
何故そうしたのかではなく、仲間であるから、大切であるからこそ、そうせざるを得なかったのだと、彼は言う。
「そう思ったら全部許すことができた。そんなサスケがオレは好きになったってばよ……」
彼はサスケだからという訳ではないのだ。特別だからという訳ではないのだ。
何故かと問われれば、『そこに在ったから』としか言いようがない。
しかし、『そこに在ったから』といってどれほどの人間が同じく動くか。
そんなサスケの心のありように共感するとナルトは言う。
まだ自分にそんな感情があったのだと、絶望する感覚とともに胸を占めたのは安堵とも言える人間くさい感情だった。
「でも、やっぱりこのままってのは癪に触るし、負い目だとか思いたくねぇから」

いつか、どうしても、本当にどうしようもなくて、
もしもそんな時がきたら、お前を救えるならこの命、サスケになら返してもいいって

それを言いにきた

今まで凪いでいた心が、嵐の海へと放り出されたような気がした。



こいつは何でこんなにも
「サスケが嫌だっつっても」
真っ直ぐなんだろう。
自分が意識を失いここで眠っていた間、修行に打ち込んでいたのは苦悩を紛らわすため。
長いとは言えない、しかし短くもない時間、どうやってこの答えを見つけ出したんだろう。
「もう決めたんだ」
心の底。ざわついて。決して自分が望んだ言葉ではないのに、続きが聞きたく思うのはなぜ。
「これで対等だろ?」
そう締めくくってナルトはようやくいつもの人懐っこい、人を食ったような笑みを見せた。
それを目に入れて、込み上げてくる笑いにサスケは肩を震わせる。前屈みになったことでナルトが視界から消えていたが、彼が訝しんでいることは分かった。
(カカシ。こいつはあんたが思うよりも弱くはねぇみてぇだ)
それは等しく己にも当て嵌まることで、この発作のような嘲笑は己にも向けられていた。
痛みがぶり返したところでサスケは笑いを止める。
「何がおかしいんだってばよ」
笑うところじゃないと拗ねる相手に、サスケは今日初めて穏やかな瞳を向ける。
そこには鬱々とした後ろ暗さは払拭されていた。
言いたいことが言えて一方的に蟠りのなくなったらしいナルトがいつものように無遠慮なまでの眼差しを真っ正面から向けてきた。しかしすぐにムムーと目を細める。気持ち悪がっているのだと安易に見てとれたが、サスケが気にするわけもない。
「せいぜい待ってればいい。オレがそんなヘマするわけねぇけどな」
馬鹿にしたようにフフンと笑ってみせるサスケに、間髪いれずにナルトが吠える。
「うっわ、ムカつくってばよー!見てろよ。いつか、絶対ぇサスケの大ピンチの時に格好よく登場してやるってばよ!」
それに溜飲を下しながらも、心中サスケは強く胸にとどめる思いがあった。
絶対このセル仲間の前で醜態だけは晒すことはしないと。
それは別に彼を危険にさらしたくないという甘い考えではない。ただ言った言葉を違えたくないだけだ。そんな庇われるような弱い自分など許せそうにない。
そこまで思ってサスケはああ、と納得する。
だからこいつは必死になってこんな馬鹿なことを言っているのか、とサスケは目の前のセル仲間が行き当たった先に自分もたどり着いてしまって苦笑しそうになった。悔しさを振り切るために、また自分も彼を庇う約をしなければならなくなる。
こうなるとループだ。抜け出ることができない。ということは先に言ったもん勝ちであろうか……。
さらに面白くない結果にたどり着いてしまってサスケは小さく嘆息する。だからこれくらいは言わせて欲しい。
非常に満足しているらしいナルトに、サスケは感情を込めずに冷ややかに、しかし詰っているということは伝わるように言葉は選ぶ。
「ムカつくってナルト、聞き捨てならねぇな。オレのこと好きになったんじゃなかったのかよ」
聞き逃していた訳ではないとサスケが意地悪く言えば、見る間にナルトの顔色が変わる。
「ちが……!あれは、その……!」
「オレも今日でお前のこと嫌いじゃなくなったんだがな」
完全な否定をナルトが口にする前に、すかさずサスケが口をはさむ。
口をぱくぱくさせる少年の顔は、金魚のように赤くなっていた。
「てめぇ……今までオレのこと嫌いだったのかよ」
悔しそうに低く唸るナルトにサスケはいつもの無表情で返す。
「ああ」
「くぁー!本気でムカつくってばよ。普通そんな言いにくいこと面と向かって言うか?」
「お前が先に言ってきたんだろうが。オレはそれに答えただけだ。それにオレは好き嫌いは別として仲間としてのお前は信用してる」
お前はそうじゃないのか?と促せば、やはり悔しそうにナルトが唸った。
「最初はすげぇ嫌だったけど……!!オレも第七班にサスケがいて、今は良かったって、思ってるってばよ……!」
やけくそのようなナルトの返答。それに当たり前だと返してしまいそうになって、一応それは胸にしまう。
そうだ。好き嫌いは別として、大切だとか必要としているとかも別として、任務を途中で放棄したことには変わりのない行動であったけれど、見捨てることはできないと思ったことは確かだ。
あの時でさえそうであったなら、例えば好意を持ってしまった場合はどうなるのだろう。
サスケはそこで考えることを己に禁じた。それこそ面白くない結果にたどり着きそうだ。
「明日も修行するんだろ。オレも行く」
ナルトはまだ紅潮している顔をばっと勢い良くサスケへと向けた。
「え?もういいのか?」
「軽く体を動かすくらいで終わるだろうけどな」
「痛くはねぇの?」
「ああ?」
「だから穴あいてるトコとか」
「変な言い方すんな。もうほとんど痛みは感じねぇよ」
手の平を上に向けて開いたり閉じたりを繰り返し、何ら違和感のないことを再度確かめる。
その仕種をナルトがじっと見ているのを意識しながら、ぐっと力を入れた。
「明日からまた修行だ。そして里に戻ったら任務が待ってる」
ナルトの瞳に強い光が閃いたのが暗い中でも分かった。
それがサスケのある部分を振るわせる。どこかなんて分からない。ただ内側にある感情とは別にある場所だ。
腑抜けたままのナルトなんて認めない。感情まで負けてしまうような相手なら惹かれもしない。
「任務のランクなんて関係ねぇ」
今回のことで更に上を目指そうとするだろう少年の、隣に在ることの喜びを感じずにはいられない。サスケは苦い思いでそれだけは素直に認めた。
自分の隣にはこの少年が在る。

「もう、足ひっぱんじゃねぇぞ、ナルト」


隣にそれが在ることをはじめて望んだ。





END



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