にて候、
第一章10



いつもの朝のふたりだけの鍛錬。ここ数日で陽も強くなり、茂り始めた青葉のにおいが穏やかに辺りを初夏の色に染め上げる。
そんな中、木刀を打ち合う音だけがどんどん激しさを増し、清しい朝の光景を厳しいものへと変えていた。絶え間なく続いていたその甲高い音も、にぶい音を最後に途絶える。力任せに打ち込んだ少年の一撃を、真正面から受けた少年が耐えきれずに叩き飛ばされたのだ。
背をしたたかに木に打ちつけ、弁丸は目前に迫った殺気にも似た気配に、咄嗟に折れた木槍をかまえた。しかし、それもすぐさま強く薙ぎ払われ、あ、と思った時には鋭い剣先が弁丸の喉元を掠めていた。
「参り…ました……」
肩で息をしながら、弁丸が負けを認める。その声には悔しさよりも、心痛の念が滲んでいた。
ゆっくり顔を上げたところで、今だ喉元から外されない剣先に弁丸は困惑する。
「梵天…?」
向けられる木刀の先をどけようと手を上げたが、木槍が折れるほどの梵天丸の打ち込みを受けていた腕は重く痺れていた。その様子を見降ろしていた梵天丸が、突如木刀を投げ捨て弁丸の袂を力任せに掴み寄せた。
「梵…て…ッ!!」
「弁丸、お前何でオレの右を打ってこねぇ」
ぐいと顔を近づけて、梵天丸は怒気を帯びた声で言う。
それにびくりと体を波打たせて、弁丸は唇をきゅっと噛みしめた。
否定しない弁丸に苛立ちがさらに増すが、否と応えたところでそれが嘘でしかないことは梵天丸にも分かっていた。
ぐっと息をつめて自分を見上げてくる弁丸を睨みつける眸はそのままに、梵天丸は内心舌打ちする。
今朝、一度目の仕合いで違和感を覚え、再度の仕合いで確信に変わった。
弁丸は故意に梵天丸の右側を攻めてこないのだと。
梵天丸のただならぬ怒りは、弁丸に向けられるものと己に向けられるものと両方あった。
昨夜、己の右目を弁丸に話した。事細かに話したつもりはない。話すつもりもない。ただ、梵天丸の右目は見えないのだと話し、それでも強くありたいと言葉にしただけ。それに弁丸も同じくと誇らしげに同意した。
梵天丸は奥州での己の立場をある程度理解しているつもりだ。片目の頼りなく醜い長男よりも、健やかで愛らしい次男を伊達家の嫡男にと目論んでいる一派がいることも知っている。もし自分が家臣であれば同じ考えを持ったかもしれない。しかし、父輝宗は梵天丸を嫡男に、と変わらずの意向を持ってくれている。それがどれ程、沈み込みそうになった梵天丸の心をすくいあげたことか。
父が望むのなら、伊達家の嫡男は自分こそがなろう。
それこそ、英邁であると誉れ高い君主に。
まずは力を。地に膝を付けるようでは話にならない。
だから強さを求める。
弁丸も強くありたいのだと言った。
それが嘘偽りないことは、暗闇の中強い光を放つ眸を見れば分かること。
この少年も自分と同じように力を求めている。
まずは目前の敵を叩き臥せるだけの、何をも恐れぬ圧倒的な強さを。
だから言った。
『ならオレの右を狙え』
勝ちを掴みたいのなら、己の死角である右側を打って来いと。
勝負において相手の弱点を衝くことは、卑劣であると言われるかもしれない。しかし、自分たちが近い未来立つ足場は道場ではない。戦場なのだ。
梵天丸は己の弱点が何であるかを知らぬほど愚かではない。己の弱点を常に意識しているからこそ、相手の弱点を探すことに長けていた。しかし、弁丸は己の弱点さえ意識せず、真っ向からの勝負を挑んでくる。
だからそう言った。それは返せば梵天丸の鍛錬にもなる。なのに、弁丸は目前の罪悪を気にするばかりで、いつもの鋭さは成りを潜め、ぬるい手ばかりを打ってきた。そんな弁丸が腹立たしくあり、弁丸の性質を知っておきながらそんな言葉足らずなことを言ってしまった浅はかな自分にも憤りを覚えた。
「お前、巫山戯てんのか。オレは右を狙えと言った。てめぇは右も左も分からねぇのか」
ぐいとさらに弁丸の袂を両手で引き寄せ、梵天丸は凄む。
「お前の一撃が読めねぇほどオレが抜けてるとでも?お前の一撃が防げねぇほどオレが弱いとでも?何様のつもりだ。それとも何か、右目が見えなくて可哀想とでも思いやがったか。てめぇに何が分かる。知った風なことすんじゃねぇ!」
梵天丸は烈火の如く怒気を弁丸に叩きつける。暗い炎の眸を見せつけるように、ぎりぎりまで顔を近づけた。
相手の呼吸まで読み取れる距離。
弁丸の眸に映る憤怒の形相をした自分。
ここまで猛り憤ったのは初めてだ。
その理由を知りながらも、梵天丸は己を抑えることが出来ない。
きっと傷つけている。酷い言葉が梵天丸の口から発せられる度に、弁丸の小さな体が揺れるのが分かった。
それでも、止めることができない。自分も傷ついた。恐らくは誰にされるよりも、この心は痛手を負ったのだ。
「梵…天……ッ」
顔を歪ませ名を呼ぶ弁丸を、梵天丸は唐突に突き放した。がつと木の根に打ちつける音と、呻く弁丸の声がする。
「その面、当分見せんじゃねぇ」
吐き捨てるように言うと、強い拒絶を残し梵天丸が背を見せた。
「梵天!!」
名を呼ばれても、歩みだした足は止まることなく、淀みなく前へと踏み出される。
「それがし、梵天を弱いと思ったことなど一度もござらん!」
弁丸の必死の声が辺りに響く。泣きだす一歩手前の声音でまるで縋るように。
「分からんのだ!自分がどうしたらいいのか!梵天が何を思ってるのか!!それがそんなに悪いことでござろうか!?それがしは梵天ではござらん!!しかし、それがしの無知がそれ程までに梵天を傷つけてしまうというのなら……!!」
只ならぬ気配に梵天丸は弁丸を振り返る。
そこには両刃の忍具を逆手に持った弁丸の姿があった。
「何しやがる!!」
梵天丸は力の加減も忘れて、今まさに苦無を己の右目に突き入れようとしていた弁丸の手を咄嗟にはたいていた。
衝撃で手から離れた苦無を目で追ってすぐ、激昂したように弁丸はきっと鋭い目を梵天丸に向ける。
「それがしには梵天の心は分からぬ!でも分かりたいと思うのだ!なれば梵天と同じになるしかないではないか!!」
小さな体を震わすように声を張り上げ、弁丸は梵天丸に食ってかかる。
微かにかすってしまったのか、弁丸の瞼と眉の間に血がにじんでいた。それを見留めて言いようのない衝動が梵天丸の身の内でかっと広がった。
「誰が同じになれっつった!誰が分かってくれと言った!オレは見えねぇのが辛いわけじゃねぇんだ!」
負けじと梵天丸も声を張り上げる。
「では何故言ってはくれん!?何故それがしに見せてくれぬ!?何がそこまで梵天を苦しめるのか教えてくれねば、それがしはこうするしか梵天を知ることができんというのに!!」
悲痛なまでの弁丸の叫びに、梵天丸が応えるように苦渋の言葉を絞り出す。
「右目が腐れ落ち、痘痕で醜く汚くなったオレを見て周りが離れていった!母上までオレを疎み離れていった!!見えなくなったのが辛いわけじゃねぇ!本当に辛かったのは……痛かったのは……!!」
激情にまかせて誰にも言うつもりのなかった本音がついて出そうになって、梵天丸はそこでくっと言葉を切った。
最後まで口にしなかった言葉は、しかし弁丸には伝わってしまっていたらしく、挑むように自分を睨み付けていた茶色の瞳は大きく見開かれていた。見る間に透明な膜が貼られ、それが粒となって丸い頬をこぼれ落ちていく。
「あ…嗚呼……梵…天……梵天……いくらそれがしが……梵天と同じになろうとしても無理なのだな。梵天の心は分からんのだな。それがしにはもう母上はおらぬ。お顔も覚えておらん……!」
母親に疎まれるということは今後弁丸にはない。その可能性がないことを良しと言えるのか、それともどのような形であれ生きているということだけで良しと言えばいいのか梵天丸には分からなかった。しかしはらはらと涙を落としながら弁丸の紡ぐ言葉は、すでにおらぬ母を思って泣くのではなく、梵天丸の心が分からぬと真摯に語りかけ嘆くのだ。
「だからこの涙は梵天の言うように同情なのやもしれぬ。同じ痛みを感じることのできぬ身なれば同情と取られても仕方のないこと。しかしそれがしは梵天を汚いなとどとは思わぬ!醜いなどと誰が思おうか!」
もどかしそうに己の胸元を掴み、弁丸が言う。
「そのようなことでそれがしの心は梵天から離れはせぬ!誰が醜いと言おうと、汚いと謗ろうと、それがしの知る梵天であるというなら、例え敵であろうと味方であろうと関係ない!!今在る梵天をそれがしは尊っといと思って……!!」
弁丸の腕が梵天丸に伸ばされる。
それは酷くゆっくりと、しかし確実に己に近づいて、
右肩にかかる重み、背に回るあたたかさ、
それらを実感した時、梵天丸の顔が苦しそうに歪んだ。
胸が酷く痛くて。
今までの苦しさが全て襲ってきたような感覚に、左目の奥がつきと痛んだ。
生きている痛みを全身で感じた一瞬だった。
「弁丸…」
情けなくも掠れる声。
「弁…丸……ッ」
喉元をせり上がってくる塊を梵天丸は抑えることが出来なかった。
頬を流れた涙が弁丸の着物を濡らす。
そして、梵天丸の両腕がゆっくりと上げられた。
ぎこちなく回した手が掴んだのは、虎の若子でも真田の嫡男でもなく。
梵天丸が弁丸と呼ぶ存在。
「弁丸…オレが……」
言葉は嗚咽のせいで紡がれることはなかった。
しかし、離れぬと言い切ったそれに応えるように、梵天丸は強く弁丸を抱きしめ返した。



ほととぎすの雛であってもかまわないというのなら……





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