にて候、
第一章11



しゅるり

「お前には見ててもらいたい」

しゅるり

「いいのでござるか?」

「ああ。泣くなよ、弁丸」

「な、泣くなどあるわけござらん」

さらり

「だからってあんま触るな」

「でも御髪が邪魔で見えにくい」

「……」

「……」

「お前、怖くないのか?目玉が出てるんだぞ」

「怖くはござらん。目玉が牙を剥いて噛み付くわけでもなし」

「……お前は面白いことを言うな」

「そうでござるか?」

「なら顔、触ってくれ弁丸」

「梵天?こ、こうでござろうか?」


弁丸は言われたとおり、両手で梵天丸の顔を包むように触れた。
その上から手を重ねて、梵天丸は眸を閉じる。
さらしを取り払った右側に触れる弁丸の左手は、右手には感じない違和感を感じ取る。ざらりと擦れる感触に込み上げてくるものがあった。
「こうやって人に触られるのは久しぶりだ。弁丸はあたたかい」
まだ乾ききらぬ睫毛を伏せ、梵天丸が吐息を吐くように言う。
「梵天こそあたたかい。手も顔も体も全部」
「ああ、そういえば顔に傷が付いちまったんだな」
伏せていた眸を上げ、梵天丸は弁丸の目蓋に赤く走る傷を見とめて眉をひそめた。
切り揃えられた前髪の下の小さな顔に傷を作っている様は、相手が自分に槍を振るっては向かってくる男子だと分かっていても心苦しいものがあった。
特に今は潤んだ目を赤くさせ、鼻をすんと鳴らす様は愛らしい童女にしか見えない。
梵天丸の顔から手を離し、己の顔の傷を擦ろうとする弁丸の手を梵天丸は止める。
「これくらい対したことござらん」
大丈夫だと破顔する弁丸に、梵天丸はその手を離す。ほんの少しだけ離しがたかった。
「綺麗に切れてるから跡は残らねぇだろうが。弁丸、お前さっき何持ってやがった?あれは忍が持つもんじゃねぇのか」
草に埋もれた鈍く光る忍具を見やって、梵天丸が問うた。「おお、そうであった」と弁丸がそれを拾いに行く。すぐに戻ってきて梵天丸の隣に腰掛けた。
「これは佐助が……それがしの忍が護身にとくれた苦無でござる」
弁丸は手には大きいそれを一度撫でた。
忍が攻撃をしたり壁に突き立て足場にしたりする、扱いやすい忍具のひとつである。
「護身なら小刀でいいだろ」
「それがしはまだ幼いゆえ刀を持ってはならんと言うのだ。刀を持つすなわち、背を見せてはならんのだと。これであれば逃げてもよいと言っておったが、それがし逃げるのは嫌でござる。しかし、それがしの忍が護衛に付ける日までは、嫌だろうが何だろうが持っていろと煩い」
ここでも、と梵天丸は思わざるを得ない。しかし、真田の嫡男、甲斐の虎の気に入りという境遇だけでなく、この若子には手を差し伸べてやりたくなる何かがあるのだ。
弁丸の言葉からしてその忍は、すでに忍足らしめる要素を欠いているように思われた。小刀ではなく苦無を手渡すところから、己が側におれない間は敵に背を見せてでも生きて欲しいという想いが込められている。そして、己が主を護衛できる立場になった暁には、命を賭して守るという意思さえ何故か梵天丸には伺えた。それに触発された訳ではないけれど、梵天丸は気が付けば己の懐に手を突っ込んでいた。
「これからはこれを使え」
取り出した小刀をぐいと弁丸に押し付ける。それは鞘と柄が黒漆で塗り重ねられた朴の小刀であった。鞘柄に鳥と蔓の模様が入って美しい。
「弟と揃いの小刀だが。弁丸、お前が持っててくれ」
「弟君と揃いとあらば……」
手に持たされた小刀を返そうとする弁丸を、梵天丸は押し止めた。
「いいんだ。そんなものなくても、竺はオレの弟。それに変わりはねぇ」
弁丸は逡巡した後、双眸を崩して大きく頷いた。
「ならこれを梵天と思って大事に致そう。しかしそれがしには梵天に返すものが思い浮かばん。さすがにこれは渡せんし」
左手に持った苦無を見つめ、弁丸が独り言のように言う。
「いらねぇよ。返しなんか」
「そうゆう訳にはいかぬ!そうだ、城に戻れば何かあるやもしれんな。昼の鍛練の後戻ってみるとしよう」
予定は決まったとばかりに弁丸は喜色を浮かべた。
うぐいすの雛たちの巣立ちを見届けるという信玄公と弁丸との約束が果たされ、すでに半月が経とうとしている。その後も弁丸がここに残っているのも、己の武器を槍に変えその扱い方を虎哉に教えを請う為であった。名目上とはいえ武田の人質となっている身、随分自由が許されていると呆れたものだが、残りたいと言った言葉を聞けた時、確かに自分は喜んだのだ。
「物を交換し合うなんて、今生の別れのようでござるな」
何気なく言った弁丸の言葉に梵天丸の胸が痛む。
自分は奥州の人間。伊達家の嫡男。ずっとここにいられるわけじゃない。
「そうなるかもしれねぇ」
「え?」
「ずっとここにはいられねぇ」
瞬きを忘れたかのように弁丸が梵天丸を見つめる。
「いつかは国元に帰る。オレの故郷は遠いから、きっともう帰ったら会うことは出来ねぇかもしれねぇ」
「そんなことはござらん!来ることが出来たのならば、会うことも出来るはず!」
「弁丸……」
「教えてくれぬか。梵天の育った郷里はどのようなところであろうか?それがし、いつか必ず梵天に会いに行く。早く一人で馬にも乗れるようになって、どんなに遠くとも必ず!」
いつもの破棄のある物言い。しかし、真っ直ぐ梵天丸を見つめる瞳は潤んでいて、必死に涙を堪えているのが分かった。梵天丸はふと双眸を緩める。今ほど弁丸を奥州に連れ帰りたいと思ったことはなかった。
「ここよりずっと北の方にある。ここまで6日かかった」
「6日!なればそれがしは5日で辿り着いてみせる!」
会いに来るのではなく、一緒に来ればいい。
「冬は雪で覆われる。身の丈よりも高く雪が積もるんだ」
「なれば冬は避けた方が良いでござるな!」
奥州の冬の月も美しいというのに。
「山道は盗賊が出るかもしれねぇ」
「梵天からもらった小刀がある!」
死んでしまっては元も子もないと、そう口にしようと思ったが、きっとこの虎若子は、ならば強くなるしかないと、木槍を手に取るのだ。
たったひと月の付き合い。最初こそ突拍子もないことを言うヤツだと思っていたが、今ならこの健やかで真っ直ぐな若子の考えなど手に取るように分かる。
「逃げることが出来ねぇんだったら、強くなるしかねぇな」
梵天丸が諦めたようにそう言えば、弁丸は大きく頷いた。
そして、気になっていたのだろう、覚悟を決めたように弁丸は問いかける。
「いつまで、ここに?」
いつまでとは決まってはいない。ただ漠然とした思いはあった。
「この木に花が咲き、散り始めた頃」
梵天丸の曖昧な言葉に、弁丸は自分たちに影を作るさるすべりの枝葉を見上げる。
「この木は百日紅とも呼ぶらしい。百日間花を咲かせるんだと」
「百日間……」
「この枝葉いっぱいに紅い花が咲くんだ」
そう言って、梵天丸も弁丸のように百日紅を見上げた。空の視界を遮る様に我先にと枝を広げ、青々と茂る若葉は小さな木漏れ日を二人に作る。
これが紅く染まったとしたら、どれほどに艶やかであろうか。
あと数日で咲く。
夏の花が。
自分たちを引き合わせた木に、特別になった紅色の花が咲く。
「一緒に見よう、弁丸」
その言葉に弁丸は、まさに花のように笑った。



しかし、その約束は蕾がつき、紅い花が咲いても叶うことはなく、
咲き誇る百日紅の前で、梵天丸はある決意を胸にした。





百日紅にて候、第一章12→
←百日紅にて候、第一章10
←戻る