にて候、
第一章12



「本当にいいのですか?」
「はい」
「ではこれを口に含んで下さい。舌を噛まないようにしっかりと。後、両手をこちらに」



虎哉はそう促すと、絎紐で梵天丸の両手首を縛った。辺りには消毒に使った焼酎のにおいが充満している。嗅ぎ慣れないそのにおいと緊張の為、吐き気が込上げ脂汗が滲む。心臓が強く打ち付け出して、不快感を消そうとするように梵天丸は大きく息を吐いた。
怖い。
何故自分はこんな思いをしてまで、己の顔をさらに傷付けるような真似をしようというのか。
突出した眼球だった物を取り除く為に、刃が突き刺さりこの眼窩からくり抜かれるのだ。既に表面は乾燥し壊死している状態といっても、今だしっかり嵌め込まれていることには変わりない。本能的な嫌悪が梵天丸の身を苛む。カチカチと歯が音を鳴らしそうで、口に含んだ布をぐっと噛み締めた。
目前に迫る鋭い切っ先から目が離せない。それが反れて右側の奥深くにずずと埋まっていった。
「―――!!」
正座し腿の上に置いた右腕に、黄色い汁にまみれたものがぼとりと落ちる。それを最後に梵天丸は喪神した。



「切るというのですか?」
「はい。これはオレにとって邪魔でしかありません」
梵天丸ははっきりと言い切った。
弁丸がここからいなくなって10日が過ぎた時、梵天丸は当初は漠然とした思いだったこの軋轢を昇華させると決めた。
どんなに隠しても負い目がある。父の言葉も弁丸の気持ちも随分と自分を救ってくれた。
それでも駄目なのだ。克服するには根本からの矯正でなければ自分には意味がない。しかし、幼い自分はそれを排除することしか考え付かなくて、それは酷く勇気のいるものであったけれど、父の期待が、弁丸の後先を考えずの、しかし間違いなく自分の心を揺さ振らせた行為が、右目を眼窩からえぐり出すという矯正を梵天丸に選ばせた。
「それと、もうひとつお願いがあります」
先程、虎哉より米沢でのことを耳にした。やはり、米沢を立つ前に自分の夕餉に毒が盛られていたらしい。目星のついた者を拷問にかけたが欲しい情報は得られず、結果始末した旨報告を受けたが、詳細を教えてくれない辺り十中八九、命を出したのは母義姫なのだろうと思う。
美しい母は醜い自分が嫌いなのだ。ただ、厭わしいと思われているだけではない、竺丸を伊達家の嫡男にする為にと、梵天丸の命まで奪おうという。それもきっと後押しした。
「ここに彫師を呼ぶことはできませんか?」
「彫師…ですか。呼ぶことはできますよ。魔除けの意味で体に彫りを入れる者もここには多くいます」
「なら、オレの右目を取り出した後、否、いつでもいいです。この痘痕の上から彫りを入れてもらいたいのです」
梵天丸はさらの窮境を口にした。
それに一度嘆息し、虎哉は梵天丸のさらしで隠れた右頬を、大きな手でひたと触れた。
「そこまでしなければなりませんか?」
「はい」
「それは何故?」
じっと虎哉は梵天丸に目を合わす。その眸には慈愛の色が浮かんでいた。
「ここに来る途中、虎哉様がおっしゃった上に立つ者の心構えを見せる為です」
梵天丸は片方の眸に力を混め、見つめ返してくる虎哉を見上げた。
「右目を切るだけでは足りませんか?」
「足りません」
虎哉の再度の問いにも、梵天丸は否と首を振り、さらに言葉を続けた。
「周りはそれで少しはオレを認めてくれるでしょう。でもオレ自身が目を反らしていては意味がないんです。前だけでなく、オレは上を向いて歩きたい。切るだけじゃオレは何も変わりません。父の為にも堂々と伊達の嫡男を名乗れるようになりたい」
己に自信を付けたいのだと梵天丸が言う。
「あなたの決意の程は分かりました。知り合いに腕の良い彫師がいます。こちらに呼び寄せるとしましょう」
「ありがとうございます」
胡坐をかいた膝に両の拳をつき、梵天丸は頭を下げる。
「あなたにそのような決断をさせたのは虎若子ですか?」
梵天丸は涙を流しながら縋り付いてきた弁丸を思った。あんな風に抱きしめられた記憶は梵天丸にはない。恐らくは疱瘡を患う前にはあっただろうと思うが、記憶は曖昧だ。
苦しみ傷付いていた梵天丸を癒そうとするかのような抱擁。熱い想いが込み上げ、気付けば梵天丸も頬を濡らしながら弁丸の熱を求めていた。
これ以上に愛おしい存在はない。
これ以上に求める存在はない。
あの時、この腕はもうずっといつまでも、弁丸という友を離したくはなかった。
「そうかもしれません。あいつはこの顔を見ても醜くないと真正面から言ってきました。醜くないわけがないのに」
「若子はあなたの外見を言ったのではなく、梵天丸、あなた一人の存在価値を評価し、そのように言ったのではありませんか」
虎哉が梵天丸の言葉を訂正する。
「……はい。そうだと思います。でもオレはあいつの言ったことを本当にしたいだけなのかもしれません。それにこうやって隠すよりはずっといい」
梵天丸はそう言うとさらしが巻かれた右側に手をやった。
「なら顔に彫る絵図を決めねばなりませんね。ここでは梵字が当たり前ですが、あなたにそれは当て嵌まらないでしょう。何か考えてますか」
虎哉が梵天丸に問う。
「百日紅を」
元より決めていたとばかりに、梵天丸は虎哉にそう言ったのだった。



じりじりと焼けるような痛みが顔の右半分を覆っている。熱を持ったそれは、2年前、生死をさ迷ったあの時に似ているが、全くの別物であると梵天丸は意識する。これは死へと向かう痛みではなく、生への執着故の自ら望んだ痛みだ。
目を開けば、やはり紅い女ではなく、傍にいることが当然となった師虎哉の姿。
「気が付きましたか、梵天丸。全て終わりましたよ。よく耐えましたね」
混濁とした意識の中、その声は酷く梵天丸に安堵を与えた。

弁丸が躑躅ヶ崎館へと帰った日、陽も傾き夕餉の時間を迎えても弁丸は戻って来なかった。聞けばここ長禅寺と躑躅ヶ崎館は半里もないとのこと、子供の足としても四半刻もあればたどり着く距離。
すぐに戻ると言った弁丸の言葉を思えば、梵天丸は不安で仕方がなかった。ほとんど手付かずの膳を下げ、辛抱堪らず迎えに行こうと虎哉に道を尋ねようとしたところで、信玄公より使いが来た。
弁丸は急遽上田に帰省せねばならなくなったとの報せを持って。

それを聞いた時の梵天丸の心情は、右目を失くした時の様な、体の一部がなくなってしまった様な損失感ばかりが胸を占めていた。
まさかこんなに早くその時が来るなんて。
それとも待っていればまた今までのように戻れるんだろうか、とそればかりを思った。
朝はともに鍛錬、勉学と励み、昼には師の教えを請うた。それらが終われば、山へと分け入り木に登り、暑い日には川へと涼んだ。
そんな梵天丸の初夏の日々は、どんな時にも弁丸の姿があったのだ。
待っていれば……。
そんな梵天丸の期待は闇夜に現れた忍によって失望へと変わることとなる。
全てが寝静まり、しかし梵天丸だけが取り残されたように弁丸を思っていた時、部屋の隅から声がした。忍は男とも女とも付かぬ声で、『真田家嫡男が若子より預かってまいった。これを梵天丸殿へと』そう言うと、手に持っていたものをわざと音を立てて畳の上へと置いた。いつ去ったのかも梵天丸には分からなかったが、忍が置いていったものを手に取り、その意味を知った時、待っていても弁丸はもうここには戻って来ないのだと悟った。

ならば自分はいつまでも立ち止まっているわけにはいかない。
強くなる為に、己れを奮い立たせた。
一人は辛いのだという事を初めて知った。
しかし、辛く思うことが必ずしも弱いということではないという事も知った。
弱さとは、歩みを止めてしまうこと。己で動けなくなること。自信を失くすこと。
次会う時には、受け入れて欲しいだなんてそんな弱々しいものではなく、胸張って対峙出来るように。
弁丸、今度お前に会う時には。
そう心に誓って。
「生まれながらにして当主の素質を持った若子よ。あなたに戦前の化粧は不要になりましたね。裏を返せば消えぬ化粧とは、不惜身命の覚悟を常に持つという意味にも取れます。まるで真田家の家紋、六文銭のように」
穏やかな虎哉の声が梵天丸を深い眠りへと誘う。


この年、梵天丸の黒く艶やかな髪の下に、美しくも精悍な百日紅の花が咲いた。





百日紅にて候、第一章13→
←百日紅にて候、第一章11
←戻る