にて候、
第一章13



もう少し待って。
あと少しでいい。
さっき言ってたのはどういうこと?
越後?上杉?
弁丸が人質って。
そんなの無理だ。
だって弁丸は体が弱い。
越後ってどこ?
雪が沢山降るところ?
そんなところに一人囚われるだなんて
なら止めないと。

弁丸
弁丸

2つ下の可愛いそれがしの弟。


「佐助!!佐助はおらんか!?」
虎若子はひと月ぶりに戻った躑躅ヶ崎館の廊下を、けたたましく歩きながら己の忍の名を呼んだ。
「佐助!!」
与えられている自分の部屋の障子を開け、天井に向かってさらに呼びかけた。
気配を探るように、じっと待つ。
そうすれば、とくとくといつもより早い鼓動の音だけが虎若子の耳を打った。
「佐助……!」
真田家当主の嫡男として生まれ、父から10人の家臣を貰い受けた。その中でも歳が近く一番身近にいた忍。猿飛佐助。4つ年上の彼は今が一番、忍として修行を積まねばならない時期であるらしく、数日、長ければひと月以上も隠里に戻っている時がある。
剣術、隠身、催眠、断食、不眠、睡眠調整、療法、速歩、変身、飛躍、等等。自分には到底理解不能な修行を積んでいるのだという。一流の忍ともなると不可能を可能にさせ、音もなく走る速さは日に40里とも50里とも言われた。
秘奥を習得する為の最終段階だと最後に顔を合わせた時、佐助に聞いた。それがまさに今だと思えば佐助の帰省の可能性は限りなく低い。しかし今、虎若子の心情としては佐助の修行よりも、先ほど城内で聞き及んだ内容のほうが一大事だった。
呼んでも応えのない現状に地団駄を踏みながらも、虎若子は懸命に広い躑躅ヶ崎館の中、佐助を探していた。
彼がひと月ぶりにここ躑躅ヶ崎館へと戻ってきたのは、梵天丸から貰った小刀の返しとなるものを探す為であったのだけれど、今はそれも忘れて佐助を探し回っていた。
城仕えの者達が話していたのを偶然耳にしたことがきっかけ。

弁丸が人質として越後へ連れていかれる

それを聞いた瞬間、まず思ったことは、絶対に止めなければという一点に尽きた。
弁丸は体が弱い。瘧(おこり)を患っていると聞いた。たまに高熱を出すのもそのせいなのだと。そんな状態の弟を越後へなど行かせられるわけがない。
虎若子は部屋を飛び出し、また駆ける。
止めなければならない。本当ならこのまま上田へと馳せ参じたいところ。しかし、今の自分は馬にもろくに乗れず、駆ける距離も知れている。
どうしたらいいんだろう。どうしたら弁丸を助けてあげる事ができるんだろう。
焦りからか虎若子の視界は徐々に曇り出す。しゃくりあげそうになるのを必死で堪えた。手入れの行き届いた庭を横切り、女中達が慌ただしく行き来する厨も覗くが、探し人は一向に見つからない。
「佐助……」
はぁはぁと肩で息をし、膝に手を付いた。内庭が見渡せる渡り廊下でとうとう虎若子はしゃがみ込んでしまう。
「弁丸……」
この前上田に帰省した際は、まだ自分よりは小さいが少し背が伸びていた。
床に臥すことの多い弟は手入れがしやすいようにと髪は短く切られていたが、やはり真田の習いとして女子の格好をしていて襟足の髪は長く残し飾り紐で結わえられていた。
その時も弁丸は熱を出し赤い顔をしていたが、自分が顔を見せるとそれは嬉しそうに微笑んだのだ。
一度熱を出すと2,3日は高熱に魘される弟を見るたびに虎若子は自分が変わってやりたいと思っていた。今まで大きな病を患ったことがなく、床に臥すことも滅多になかった。そんな自分がしてやれることと言えば、もういない母の変わりに苦しむ弁丸の汗を拭い、手を握ってやることだけ。
明日越後入りする予定とあれば、すでに上田は発っているはず。
熱は出ていないだろうか。寂しい想いはしていないだろうか。
弁丸を思うと虎若子の胸は苦しくて、悲鳴を上げそうになる。
なんて可哀相な弟。
それに比べて自分はどれほど恵まれていることか。己も人質とはいえ、父は武田の信頼厚い家臣。信玄公の人柄も技量も学ぶ箇所はあれど卑見などあるはずもなく、虎若子から見ても誠敬愛するに値する武人であった。そんな人物を間近で仰ぎ、自由を許された身は至福と言えよう。
「変わってやりたい……弁丸……」
そうすれば、冬は寒さに凍えることも、不自由を強いられることもない。
弁丸と代わることが出来れば―――。
「あ…ああ……そうか……それがしが、弁丸になればよいのだ……」
すとんと落ちてきた応えに、虎若子は膝の間に伏せていた顔をゆらりと上げた。
そうだ。自分が弁丸となって越後へと行けばいいではないか。自分であれば極寒の地であろうと、どこぞに閉じ込められてしまおうと堪えることが出来る。堪えてみせる。
幼い思考は、これと定めてしまうと、もうそれ以上の最善を考えることを放棄する。
何とか呼吸が調った所で虎若子は、辺りを見回した。やはり佐助の気配はない。日を増すごとに三無(無色、無臭、無声)、さらに調息と、隠身に磨きのかかってゆく忍の気配を探るに、虎若子にはまだ早かった。それを悔しながらも自覚のあった虎若子は大きく息を吸うと、
「佐助佐助佐助佐助佐助佐助佐助えええええええぇ!!!!」
喉も裂けよと有らん限りに己の信頼する忍の名を叫んだ。
ぜぇぜぇと喉がなる。
近くにいたらしい城仕えの者たちが、何事だと集まってきた。それに、何でもないと首を振るが、自分に目線を合わせようとしゃがみ込んで優しく理由を尋ねる相手に、じわりと涙が浮かびそうになる。
虎若子のそんな様子に、話しかけていた女中が「部屋へ戻りましょうか」と手を引いた。
その時、
「ちょっと待ってねー。その子、俺様を探してたの」
どこから現れたのか、いつもの迷彩柄の忍服を着たサスケが自分の隣に立っていた。流れるような動作で若子の軽い体を片手でさらい、一気に跳躍する。
「真田の若子様は俺様が部屋にお連れするよー。それじゃ」
虎若子同様久しぶりに姿を見せた佐助に、顔馴染みの城仕えの者達が口々に声をかけてくるのにそう言い置いて、佐助はその場を後にした。
当然と屋根へと着地し、片手にかかえた若子の体を両手で抱き上げる。すぐにいつものように若子の腕が佐助の首へと回った。
それを合図に、佐助は飛ぶように屋根の上を駆けだした。虎若子の耳にはひゅんひゅんと風が鳴る音だけが聞こえる。
一度佐助の首へと回した腕に力を込め、不貞腐れたように虎若子は言った。
「遅いぞ。佐助」
「ごめんね、真田の若子様。これでも俺様急いで来たんだよ」
そう応えた佐助の胸は、確かにいつもより少し鼓動が騒がしいようだった。
「で、どうしたの?俺様がいない間何かあった?」
それでもこの速さで駆けても佐助の息は乱れておらず、自分へと問う声もいつも通りだ。
「佐助は知っておったのか?弁丸が…それがしの弟が越後へと人質にやられてしまうということを」
ここの城の者は皆知っている様子だった。いくら隠里へと戻っていたとはいえ、真田家の大事。それを佐助が知らないとは思えない。故意に隠されていたのだと察する。
「勿論知ってたよ」
意外なほどあっさりと佐助が応えた。
「ならば、何故それがしに教えてくれんかったのだ!」
虎若子がそう怒鳴ったところで、佐助は足を止めた。
「だって、若子様は聞かなかったでしょう」
「そ、そんなことどうやって聞けというのだ…!佐助はそれがしの忍であろう?!」
無茶を言うと若子は憤る。
「若子様の忍だから知ってても言わなかったんだよ。若子様の不利になることを俺様は絶対言わない。でも若子様は俺の主だから聞かれたことには全て応えるよ」
佐助は膝を付き、若子を見上げるようにしてそう言った。
「それがしの不利になること?」
「うん」
「何故、そう思うのだ」
「若子様は弁丸様の越後行きを知ったら、それはもう反対するでしょう?」
「当たり前だ!」
「だよねぇ」
若子の即答に佐助は苦笑する。
「そうなると、真田の旦那様にもお館様にも迷惑がかかる。それが分かってるのに、易々と若子様の耳に入るようなことはしないよ」
さすがにこの時期に戻ってくるとは思わなかったけど、と佐助は続けた。
「さてと、本題。真田の若子様は何で俺を呼んでたの。弁丸様の越後行きは決定だから今更止めることはできないからね」
当たり前のように佐助が釘を刺す。
「それがし、お館様や父上にご迷惑がかかるようなことはせん」
虎若子の言葉に佐助が目を輝かせた。
「若子様もお寺での修行で成長なさったようで俺様…」
「それがしが弁丸として越後へ行く!」
「本当に嬉し……ええええええぇ?!」
佐助の驚嘆の声が辺りに響く。
「越後へ行く!!」
虎若子は違えるつもりはないとばかりに繰り返し佐助に聞かせた。
「そそそ、それは流石に無理だよ真田の若子様。アンタは一応武田の人質なんだから」
「それくらい分かっておる。なれば弁丸がそれがしの変わりとしてここにおればいい」
「そりゃ越後にはばれないだろうけど、ここの人達までは誤魔化せない。今回ばかりは諦めて、ね?真田の若子様」
佐助は虎若子の両手を取って宥める。
「勿論、お館様の許可を頂くに決まっておる。黙って行くなど出来るはずがないではないか」
「何の為にお館様がわざわざ若子様をお寺に預けたと思ってるの。若子様にはこの件に関わって欲しくないからでしょう」
珍しく必死の形相で佐助が思い止まらせようと説得する。
「あれは…それがしをここから遠ざける為でござったか……」
信玄公に連れられ五山は長禅寺へと向かったのは、旧知の仲だという虎哉宗乙禅師に会う為であった。ならば、あの時にはすでに自分を寺へと預ける算段であったのかもしれない。あまりに自然で全く気付かなかった。
「それでも、それがしは弟を見捨てることはできん」
断固として虎若子は言い放つ。
「見捨てる見捨てないの問題じゃない。国元の存続がかかってるんだ。少し冷静になろう若子様」
負けじと佐助も反論した。しかし、虎若子の意思は固く佐助の言葉に頷こうとはしない。
「ここで弁丸の越後行きを認めるのは見捨てるも同然。それがし血を分けた弟を見捨ててまで国元の存続を望んだりはせん!それにそれがしが弁丸に扮するとして何かあったとしても、佐助が付いておれば問題なかろう?」
虎若子の越後行きに当然の同行を言い渡され、佐助は一瞬目を見張る。
そして絶対の信頼。
それは時に窮地に陥れさえする諸刃の剣。
しかし、生涯に唯一人と認めた主からこれだけの信頼を寄せられて、拒絶できる者が果たしてどれほどいることだろう。
アンタは真田の嫡男なんだとか、今のご時世肉親よりも権力を選ぶのが当たり前だとか、そもそも今兄弟で入れ替わってしまったら元に戻ることは出来ないかもしれないとか、もう少し考えてから口にしろとか、言いたいことはいくらでもあった。
それでも佐助が出来たことといえば、反対に両手をしっかと掴まれ、
「では今からお館様のところへ行くぞ、佐助!」
という現状を分かっているのか分かっていないのか、まるで川へ行くぞ!とでも言うような軽快な口調で命ずる己の主に向かって、こくんと首を縦に振ることだけだった。





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