にて候、
第一章14



「して、話しとは」
広い謁見の間に信玄の威厳溢れる声が響いた。上座にどしりと構える風体は見慣れた虎若子でさえ畏怖を抱く。しかし、一国の主に相応しい厳しい表情の中にも、自分を見下ろす眸に混じる温情を、若子は感じなかったことはない。
まだ若子には忠義や仁義といった感情を持つのは難しく、しかしこの人こそを己の範とし生涯を掛けて追行すると心決めた御方。先程、佐助と話していた時の勢いはどこへやら、自ら別れを切り出さなければならない辛さに若子の目には早くも涙が滲む。
この時点で若子の中に、己の越後行きを反対されるという考えはなかった。これだけの決意を持った自分を信玄が突っぱねるということはないと、盲目的に信じている。溢れ出る感情に若子の体は震えだしていた。
信玄と向き合って座する虎若子の斜め後ろに控えた佐助は、己の主がこういった場面にとことんまで弱いことを知っている。佐助は来るだろう自分の出番をじっと待っていた。
静まり返っていた謁見の間に、小さな嗚咽がひとつ漏れる。
「……お、お館…様…」
顔を伏せたまま搾り出すようにして若子が切り出す。
「うむ」
それを受け止めるように、信玄は大きく頷いた。
若子の体にぐっと力が入る。
「……お館……さま」
「うむ」
「それがし…」
そこではぁはぁと、若子が呼気を調える。拭き出る額の汗がこめかみを伝い、床へと水滴を作る。すでに視界は涙で霞み、断続的に喉元を込み上げてくる衝動を若子は抑えることに必死だった。
「お館様……それがし……!」
「何ぞ申してみよ」
辛抱強く信玄が先を促す。
「それがし……!」
ばっと顔を上げた若子の面は、滂沱の涙と流れる汗でぐしょぐしょになっていた。それを見た信玄の顔が一瞬何とも言えぬ表情を作る。強いて言うなれば困惑に近いものであったのだが、それを見逃さなかった佐助はやれやれと内心呟いた。
信玄公は若子の涙に弱い。常日頃、男子が容易く泣くでないと恫喝しつつも、言葉に反して 目じりが下がっているのを佐助だけは気付いていた。己も人のことは言えない口だが。
「若子よ。今ワシの前に座するは、弁丸のことで違いないな」
上手く話を切り出せずに嗚咽をもらす若子に、信玄は譲歩の姿勢をみせる。若子が信玄との謁見を望んだ理由を既に知っているのは流石と言えた。
今年の雪解けと同時に川中島にて武田軍と上杉軍が対峙した。双方一歩も譲らず長期に渡り犀川を挟んだ対陣の結果、兵糧の調達に苦しんだ武田側から和睦を願い出ることとなったのだが、その条件の中に真田家の次男を所望する旨が記してあった。どんな形であれ真田と繋がりを作っておきたいというのが上杉側にもあるらしい。
信玄の確認の言葉に若子が大きく頷くのを見届け、
「此度の弁丸の件、お主がいくら泣こうが喚こうが腹水盆に返すことはできん。しかしその涙、弁丸を留まらせる為にワシに請う涙ではないようじゃの」
信玄が若子の先回りをするように言う。次々溢れる涙の粒を拭うこともせず、またひとつこくりと頷いた。
「それがしが…弁丸に…なりまする……!」
しゃくりあげながら若子はそれだけ言った。後は嗚咽となって言葉にならず、また顔を伏せてしまう。膝の上に乗せた小さな拳がぐっと握りこまれた。
それを見届け、佐助がすっと若子の横へと寄り添った。震える背を一度撫ぜれば、やはり涙顔の主が佐助を見上げる。それに苦笑し佐助は信玄へと向き合った。
「お館様、真田の若子様は御自身が弁丸様と入れ替わって越後へ向かいたいと」
若子に変わって佐助が言葉を引き継ぐ。
「それは、なにゆえじゃ」
「弁丸様はお館様もご存知のとおり持病もあります。武田の為と諜報を期待することも難しいんじゃないかなぁと」
佐助は苦しい言い訳を飄々と砕けた様子で口にする。それでも、若子のようにただただ懸念し心痛からの言葉よりか、幾ばくか公的の事由にもなりうるのだ。
信玄は一度瞑目し、佐助の提案とも取れる言葉を吟味する様子を見せる。
「若子よ。お主に弁丸の変わりが務まろうか」
「も、もちろんで…ござります…お館様……!」
若子の返事を聞き、信玄は立ち上がる。一段高い上座から降りゆっくり若子へと近づき、片膝をついた。迫る大きな存在に立ち向かうように、若子も負けじと身を乗り出して目線を合わせる。
「真田家嫡男のお主に、弁丸として生きる覚悟があると?全てを投げ出しそこまで背負うか」
「元より…覚悟の上…!」
込み上げる嗚咽をぐっと堪え、若子は信玄の言葉を己の覚悟として大きく頷いた。
「ならば行け。そして必ず戻るのだぞ。お主の居場所はこの信玄の傍以外ありはせん」
「お館様……!」
信玄の大きな手が若子の頭に乗せられた。ぐしゃぐしゃと撫ぜられる感触が、塞き止めていた衝動を再び揺り動かす。
「お館様……!!それがし…必ずや、必ずやお館様の元へと戻って参ります…!そしてお館様のため、この甲斐のため、それがし力の限りお役に立ちとうござりまする……!」
「うむ。待っておるぞ」
信玄の手の下で小さな体が震える。
「若子よ。ワシはこのことを知ればお主はそう言うて来るだろうと分かっておった。だからお主の耳に入らんようここから遠ざけたのだ。ワシの息子のように虎の若子と呼ばれるお主を引き止めておきたいと思うてしまった。お主の弟を想う優しき心、己の振る舞いを言い置く潔さ、それを知った今、なおさら惜しく思うぞ」
「お、お、お館様ああああぁ!!」
子供独特の高い声が広間に響く。ぶわっと体を戦慄かせ若子が信玄へと飛びつくように抱きついた。
振り切られるわけがないと疑いもなく伸ばされる手。
いつも受け止めてくれる大きな存在。
若子は必死で信玄を掴む。
大きな腕が背にまわり、調子を付け優しく数度叩かれた。
しばらくして虎の胸から若子の嗚咽混じりの大きな泣き声が漏れ始める。
「弁丸のことは案ずるでない。真田家嫡男として丁重に迎えよう。ゆえに安心して越後へと向かえばよい。そしてお主は必ず戻ってくるのだぞ。戦場でワシと駆けると言うた言葉、違えるつもりはあるまい」
「はい…っ…おやかた…さま……!」
こくこくと首を縦に振り、そのまま突っ伏して泣きじゃくってしまった若子を、信玄は気が済むまであやしたのだった。



陽が落ちかかる頃合、矢のごとく駆けていた一騎が手綱を引いた。
千曲川に沿う街道で馬を走らせ、ちょうど今は上田原辺り。この調子で行けば越後との国境前で弁丸一向に追いつけるだろう。
佐助は鐙(あぶみ)を踏み馬が止まったところで手綱を緩めた。先に自分が降り続いて若子を受けとめる。
「さぁ、少し休憩しましょうか」
街道を反れ山道を少し入ったところに小川がある。そこまで手綱を引き後は自由にさせた。
信玄が必要であろう、と用意した雄馬。まだ年若い馬だが、躾は十分にされており子供が乗るにも問題のない大人しい性質で、鹿毛(かげ)の毛並みが美しい駿馬だった。
馬が水を飲んでいる間、木を背もたれに若子を座らせ束の間の休憩をとる。竹筒にはまだ水はあったが、佐助は新しく汲んできた水を若子へと手渡した。ついで、腹を減らしているだろう主に握り飯を用意する。
「佐助は食わんのか」
手渡された握り飯を最初こそはがつがつとほうばっていた若子だったが、それも二つ目となると隣で水を飲んでいる佐助の様子が気になった。
「うん?俺様はお腹減ってないからいいんだよ。若子様は気にせず食べて」
「そうか」
基本、忍は人前で食事をしたりはしない。ただ幼い頃より若子に仕えている佐助は、若子とだけは共に食事を取ることもあった。しかし、今は旅先。腹が減ってようが減っていまいが、全ての優先順位は主である。一日二日、何も食わずとも自分は支障をきたすことはない。ならば限りある食料が佐助の腹に入ることなどなくてもよいのだ。腹に入れねば排泄の憂いもない。
「ほら、ほっぺたに米粒ついてるよ」
佐助は甲斐甲斐しくも若子の米粒を取ってやると、それをぱくんと己の口に放り込んだ。
いまだ泣き腫らした主の目は赤く、佐助の保護欲をいつも以上にかき立てる。さらにはひと月ぶりの顔見せともなると、佐助の言動は平素の2割増しに甘くなるのも道理であった。
「佐助の修行はもう終わりなのか?随分と長く離れていたようだが」
「後もうちょっとって所かな。でもそこは真田の若子様と一緒で修行に終わりはないよ。何、若子様、俺様がいなくて寂しかった?」
十日と離れていれば、退屈だっただのもっと早く帰って来いだのと怒る主が、その素振りも見せないことが佐助は面白くない。茶化したようにそう言えば、若子は俯き珍しくも小さなため息をひとつ落とした。
「それがし、今回は佐助がいなくとも寂しくなかった」
虎若子の衝撃的な台詞に佐助は一瞬固まる。しかしそこは忍、何事もなかったようにその理由を問いかけた。
「ひと月も俺様いなかったのに?」
「うむ。寂しくはなかった」
「若子様あああぁ」
若子の即答につい佐助は嘆いてしまう。
「違うのだ佐助。それがしに友ができたのだ。だから今回は寂しくなかった」
そう言い直すと、若子は言葉とは反対に寂しそうに笑った。
「ご友人って、長禅寺のお坊さんがお連れになったっていう、若子様と同じ年の?」
「うむ。それがし別れの言葉も言えずにここまで来てしもうたのだ。返しの品も渡せておらん。もしかしたら梵天は泣いているやもしれんな」
若子は自分こそが泣きそうに顔を歪め、心痛を吐露した。
「いつか…いつか、お館様から賜ったこの馬に乗って会いに行きたい」
思い詰めた様子の若子を見つめ、佐助はふっと表情を緩めた。
「その時は俺様も一緒について行くよ。そうだ若子様、この鹿毛の馬に名をつけてあげないと」
佐助が気を利かせて話を変える。
「おぉ、そうであったな。何がよいであろうか」
「若子様の好きなものでいいんじゃない?」
重たい空気を払拭させるように、佐助が軽い口調で提案した。
「それがしの好きなもの……ううむ…ならば『みたらし』…はどうであろうか?」
「若子様ぁ、いくら好きでも食べ物はないんじゃない?戦場で自分が乗るんだよ?『行くぞ。みたらし!』とか『蹴散らせ、みたらし!』とか指揮が下がること請け合い。犬や猫につけるんじゃないんだから、もっとこう強そうで賢そうなね。分かる?」
呆れたように言われムっとするが、戦場で猛る自分を思い浮かべてみて、なるほど『みたらし』では少々覇気にかけるかもしれないと思い直す。
「確かに『みたらし』では具合が悪いか。色合いから申し分ないと思ったのだが。強そうで賢そうな名とはさて何があろうか……」
首を捻りながら考えていた若子が、あ、と大きな眸を瞬かせた。
すかさず佐助が牽制する。
「だからって『お館様』とか『信玄公』も駄目だよ」
「む…。それも駄目なのか」
「つけようとしたね…」
佐助はやれやれと嘆息しながらも、立派に育った主がまさしく『お館様』と戦場で駆ける様を思い浮かべて、それはそれで楽しそうだとこっそり思う。しかし、そんな名を付けようものならこの主は馬にまで敬意を払いそうだ。当たり前だが却下である。
「ならば、梵天も駄目か…」
うーん、と思い悩む若子を横目に佐助は解いていた荷物を片付け始める。そろそろ出発した方がいいかもしれない。
「若子様、名は移動しながら考えましょう」
「いや、今思いついた。『つきかげ』と名付けるぞ、佐助」
振り向いた佐助に若子は立ち上がってそう言った。嬉しそうに笑みを浮かべて。
「『つきかげ』かぁ、良い名だね。月ってやっぱりお団子に似てるから?」
「違うぞ佐助。月とは梵天のことだ」
憤慨したように訂正し、若子はまだ薄っすらとしか姿を現していない月を見上げた。
「まるで月のような友なのだ」
「それは、麗しい方なんだろうねぇ。もしかして若子様ってば惚れちゃった?」
「…ほれ?」
「好いているってことだよ」
若子にも分かり易い様に佐助が言い直す。
「ああ、確かに好いておるな」
幼い顔をほころばせ、若子は梵天丸のことを思った。
駆け抜けるように過ぎた日々。
いくつかの約束をした。
必ず会いに行くと。
ともに夏の花を見ようと。
「また、会えるといいね、若子様」
優しい佐助の声音に、若子はこくりと頷いた。

いつか必ず―――





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