にて候、
第一章15



「待たれよー!!」
後方より疾風の如く駆けて来た一騎が、街道を進む一行を呼び止めた。
「貴殿らは真田家家臣ら一行とお見受けする!それがし真田昌幸が嫡子!お話したいことがござる!少々お時間頂きたい!」
佐助が操る馬に同乗していた若子はそう口上を述べると、一行の横に並んだ途端勢いよく飛び降りた。



「そ、それはなりません!兄上!」
若子に良く似た童が驚愕の声をあげた。やはり紅い着物を身に纏い、伸ばした髪が肩にかかる様は愛らしい童女にしか見えない。
宿場を急ぐ弁丸一行を呼び止め、若子は弟に自分が越後へと赴く旨を伝えた。弁丸の従者らは佐助にまかせ、強情にも若子の言い分に頷こうとしない弁丸を説き伏せていた。
「弁丸。兄はそなたが心配でたまらぬ。どことも知れぬ場所に体の弱いそなたひとり、どうして行かせれようか。越後へはこの兄がゆく。そなたは一度上田へと戻り、父上にその旨伝えてくれ」
「何をおっしゃりますか兄上。弁丸は大丈夫です!真田の名に恥じぬよう、きちんとお役を果たしてみせます!」
若子より一回り小さな弁丸が必死の様子で若子へと詰め寄る。
「ならぬ。もう決めたこと。それにそなた、また熱が出てきておるだろう、顔が赤い」
興奮の為もあろうが、顔を赤くし眸を潤ませる弟を気遣うように若子は縋る弁丸の額に手をやった。やはり少し熱い。
「これくらい何ともありません。ですから兄上はどうか甲斐へとお戻り下さい」
気丈に言い張る弁丸を誇らしく思いながらも、若子もここで引くことはできない。これまでの道程で疲れが出ているのだろう、これから熱が高くなることは予想できていた。ふらつきそうな体を気力で支え、真っ直ぐ見上げてくる弟を見てしまえば若子の決意はさらに強まる。
「何ともないことはなかろう。心配などするな。兄はそなたが越後へなど行ってしまえば、それこそ心配で夜も眠れぬ。食事も喉を通らなくなるであろうよ」
「兄上……」
弁丸の眸に涙が溢れ出す。
「お館様…信玄公にはすでに伝えてある。兄が越後へと行っている間、お館様の教えに従い、お館様に仕え、そうしてそなたには健やかであって欲しい」
若子はとうとうと涙を流す弁丸を抱き寄せた。
小さな弟。
母が自分に残した尊い命。
「そなたは母上の忘れ形見。兄を想うならこの願いきき届けてはくれまいか」
もうずっと守ると決めていた。
「……う…ぅ……わ、分かりました……あにうえ…」
くぐもった弁丸の了承の言葉を聞き、若子は抱きしめる腕に力を込めた。
「そなたは今日から真田家嫡男を名乗り、それがしが弁丸と名乗ろう」
弁丸の涙に自分も泣きそうになるが、若子はぐっと堪える。そうしてひとつの想いを託した。
「いつかもし、真田の嫡男を名乗るそなたに梵天丸という者が訪ねてきたら、必ずそれがしに教えて欲しい。大事な友なのだ」
「友…ですか?」
「たったひと月しか梵天と過ごすことは出来んかったが、ともに修行し心通わせあった相手。いつ訪ねてくるかも分からん。それがしの方から訪ねてゆくやもしれん。それでも、もしいつか梵天が…梵天丸が訪ねて来るようなことがあったら」
若子はそこで言葉を切ると、想いを込めるように胸に手を置いた。
一人にしてすまなかったと。
そなたが訪ねて来るのを待っていたと。
そう伝えて欲しい。
若子は熱くなる胸を感じながら、真摯にそう告げた。
「梵天丸殿ですね。分かり…ました…」
涙ぐみながら頷く弁丸の言葉に若子は頼む、と笑みを見せる。
ちょうど弁丸の従者らとの話がつき、戻ってきた佐助に若子は訪ねた。
「佐助。今ここには誰かついてきておるのだろうか」
「今?えーと、三好兄弟は上田にて待機、鎌之助と甚八は一足先に越後入りしてるでしょ、望月は念のためまだ甲斐に残ってて、後は皆呼び寄せてそこら辺にいてるけど」
そうか、と短く返すと若子は考え込むように瞑目する。
若子は自分が弁丸と入れ替わることによって、今後互いが背負ってゆくものも変わってしまうことは覚悟していた。
嫡男である自分に仕える10人の家臣らをどうすればいいのか。本来であれば佐助を含め、全ての家臣を弁丸に仕えさせなければならないのかもしれない。そうするからこそ、弁丸が真田家の嫡男となれるのだ。しかし、これから弁丸と変わって越後へと赴くことを思えば、仕える家臣を己も連れていかなければならないというのも実情。
「なれば、才蔵と小助、望月、三好兄弟は弁丸に仕え、佐助、鎌之助、甚八、海野、十蔵はそれがしとともに越後に」
「え?ちょっとそれどうゆうこと?」
「才蔵、小助!!」
佐助の問い掛けには応えず若子は構わず二人の家臣の名を呼ばわった。
木葉が擦れる音も土を蹴る音もさせず、若子の前に二人の忍が揃う。
霧隠才蔵、佐助と年も近く忍としての力量も引けを取らない伊賀流忍者。闇に溶ける黒い髪と眸が印象的で、佐助とは真逆にいるような口数少ない冷静沈着な忍である。対するは若子とそう年も変わらないだろう幼い顔立ちの忍、穴山小助。若子と背格好、顔立ちが似ていることから影武者として育てられ、佐助同様修行中の身。
地に片膝をついた二人が、双方全く違う表情をして見上げてくる。耳目を鍛えているだけあって、名を呼ばれる前から若子と佐助の会話が聞こえていたのだろう、小助の顔は酷く歪んでいた。
「若子様。いくら何でもその命令はきけねぇってばよ」
「新しい主はこっちか、虎の若子」
二者同時に口を開き、その内容の聞きづらさに若子は眉を寄せる。
「それがしの耳はふたつあれど、二つ同時には聞き申さん」
ぷくと膨れて見せる若子に、鞍替えを真っ先に否定した小助がそれにのる。
「だったら若子様、オレが聞き分けを教えてやるから、他に仕えろとか言わねぇでくれってばよ」
「小助。これは命令だ」
横から才蔵が抑揚の無い声で、なお言い募ろうとする小助を止めた。
「だって……!オレは若子様の影武者になるためにずっと今まで傍にいたんだ…!」
幼いだけあって感情を抑えきれない小助が、地団太を踏んで反論する。元来、感情を抑えるのが苦手な性質なのだろう、主の前だというのに小助の反抗ぶりは到底忍とは思えない様子だった。そんな忍らしくない小助を若子はずっと好ましく思っていた。出来れば佐助同様、自分に仕えずっと傍にいて欲しい。しかし、影武者になるべくときた小助が誰の傍にいるべきかは、いくら幼い若子といえど分からぬはずがない。
若子は小助に真田の嫡男として最後の命を与える。
「だからだ、小助。これからはこの弁丸が真田の嫡男。これより影武者が必要となるのは弁丸なのだ。分かってくれ小助。それがしもそなたと別れるのはとてもつらい」
「若子様……」
若子にそこまで言われれば、小助も反論することはできない。
「小助はこのまま弁丸を護衛し、上田へと戻ってくれ」
弁丸を頼むぞ、と続いた若子の言葉に小助は顔を伏せたまま「御意」とだけ応えた。
それを見届け、次に若子は才蔵へと向き合う。
「才蔵。そなたには行ってもらいたいところがある。佐助、それがしの荷物から藤巴を」
「はいはいっと」
言われたとおり佐助は馬に括り付けてある荷物から、一振りの懐剣を持ち出し若子へと手渡した。
「これを甲斐は長禅寺にいる梵天に渡して欲しい。それがしと同じ歳の童だ。僧侶の虎哉様と同じ部屋にいているはず」
若子はそう言うと、才蔵の前に懐剣を差し出した。
「ちょっと、若子様!それって若子様の母上様の形見でしょう?それをあげちゃうの?」
「かまわんのだ。それがしも梵天の弟君と揃いだという小刀をもらった。今、梵天には護り刀がない。それがしが返せるものと言えば、この藤巴くらいのもの」
差し出された懐剣を両手で受け取り、才蔵が本当に良いのかと眸を向ける。それに小さく頷いて、若子は己の手から離れた母の形見を見つめた。
黒漆塗りの柄と鞘に金泥で母方の家紋藤巴を描いた美しい懐剣。きっと梵天の身を守ってくれることだろう。
「二人ともくれぐれも弁丸を頼むぞ。望月と三好兄弟には宜しく伝えてくれ」
「御意に」
二人の声が重なる。まだどこかつらそうに眸を伏せる小助の姿に胸を痛めながら、若子はこれが最後と、佐助を振り返った。
「佐助。それがしの髪を短く切ってくれんか」
そう言って若子は懐にしまっていた小刀を取り出す。
「えー、真田の若子様、その綺麗な御髪切っちゃうの?もったいなくない?」
まぁ、あちらさんも弁丸様のお姿くらいは知ってるだろうけどぉ、と佐助は不本意だと言いながらも若子から小刀を受け取る。
「あれ、こんなの持ってたっけ若子様。あ、もしかしてこれが?」
佐助は鞘から抜くと刃を眺めた。
「うむ、それを梵天から貰ったのだ」
そこで、はあぁとわざとらしい溜息が佐助から漏れ出る。
「これを受け取ったってことは、俺様が渡した苦無は用なしになっちゃったってことだね。俺様ちょっと嫉妬~」
言葉ほどに残念がってはいないおどけた様子で佐助が言う。
「何を言うておる。これからは佐助が苦無の代わりとなって、それがしを守ればよいだけの話であろう」
それに真剣に若子が応えれば、佐助がうっと言葉を詰まらせた。己の顔に手をやって「どうしてこう、うちの若子様は……」と小さく唸る。こうやって己の主はてらいもなく、そうするのが当たり前とでもいうように”好意を持っているのだ”と直球で伝えてくる。より身近で若子に仕えている佐助は、この攻撃を集中的に受けざるを得なかった。だからか今だかつて、自分から若子の元を離れようなどと思ったことは佐助はない。
「分かりました、分かりましたよー。切ればいいんでしょ、切れば。もちろん俺様が切らせて頂きますよ」
やけくその様に佐助は一声吼えると、器用な手つきで若子の願い通り髪を切り始めたのだった。





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