にて候、
第一章16



空がようやく白み始めた頃、定期の宿場から数人の従者に見送られた若子と忍隊は、越後へ向けて出発した。
清しい朝の気配が近付く中、佐助に支えられながら若子は後ろを振り返る。そこに弁丸の姿はない。昨夜、宿場に着いた早々熱が上がってしまった弁丸は、まだ床から出られなかったのだ。
「ちょっと、若子様。あんまり身を乗り出すと落っこちるよ」
佐助は持っていた手綱を片方外し、傾く若子の体へと腕を回した。
「名残おしい?」
徐々に遠ざかってゆく様をじっと眺めている、若子に佐助が問いかける。
「弁丸はそれがしの兄弟。心配に決まっておろう。無事に上田に戻れればよいが」
「越後に着いたら誰か使いをやるよ。当分、弁丸様はあの宿場から出られないだろうし」
「そうしてくれるとありがたい。それと佐助、弁丸とはそれがしのことぞ。間違えるな」
「はいはい。そうでした~」
聞いているのかいないのか、適当な返事を佐助がする。
「それがしもこれからは、兄上と呼ばねばならんのだな」
独り言のようにつぶやく若子に、佐助もややこしいねぇと嘆息した。
「でもあれだね。なんやかんや言って、当たっちゃったね」
「何がだ、佐助?」
意味が分からない、と振り向こうとする若子に苦笑しながら軽い体を支え、佐助が言葉を続ける。
「ほら、7つの歳まで生きられないって言われてたでしょ」
「それがしはまだ生きておるぞ」
どこが当たっているのだ?と若子の口調に険が混じる。ぷくと頬が膨らんだのが見えなくても手に取るようにわかってしまって、佐助は笑みを浮かべた。
「うん、そうなんだけどね。例えばさぁ、真田家の嫡男としてって、占ったんだとしたら当たってるなって思ったんだよ。ほら、真田の嫡男としては7つの歳まで生きれなかったでしょ」
「おお、言われてみればそうだな!」
若子は佐助の言葉に何度も頷く。その度に短くなった若子の髪が、ふわふわと佐助の顔の下で揺れた。
「後悔はない?」
跳ねる若子の髪を撫で付けてやりながら、佐助が問う。反対していただけあって、佐助の声には憂いが含まれていた。
「後悔などしておらん」
しかし、若子は佐助の憂いを跳ねつけるように即答する。
「でも後悔することになるかもしれないよ?」
重ねて問えば、いつもの破棄のある声が返ってきた。
「先のことは分からんであろう。しかしお館様はそれがしに、戻って来いとおっしゃられた。この先が髪の一筋でもお館様に繋がっているのであれば、それがしに悔いはないであろうよ」
それを聞いて佐助はなお言い募ろうとしていた言葉を引っ込めた。主がそう言うのなら、自分はその髪の一筋でもなればいいのだと言い聞かせる。幸い自分は真田の嫡男ではなく越後へ赴く弁丸の傍で仕える事を許された。
「ならいっか。それにしても勿体無かったなぁ。俺様、若子様の御髪好きだったのに。まぁ、若子様の兄上様と同じように一房残してはいるけどね~」
佐助は若子の紅い組紐で結わえた髪を手に取る。
今まで背中で揃えていた長い髪を、昨夜佐助に切ってもらった。女子の格好をしていても、己の髪に執着をしているわけでもない若子は、佐助の勿体無いの意味が分からない。分からないけれど、賞賛の言葉をもらい嬉しく思ったことがあったのは事実。
「これはやはり、元服をすれば切らねばならんだろうか」
「え?別にいいんじゃない?てっきり直ぐに切るって言うのかと思ったよ」
若子の鍛錬に付き合うたび、その髪を結いあまつさえ手入れさえしていた佐助に、ただ生やしているだけの若子は邪魔だの切りたいだの言っていた。これは晴れて元服となればこの髪も容赦なく切られてしまうことだろうと、嘆いていた佐助は意外なことを口にした若子にそう感想を述べた。
「この髪を褒めてくれた梵天にまた会うまでは、切りとうないと思ったのだ」
また梵天?という思いはあったがそれは言葉にせず、
「なら、梵天丸殿には感謝だね」
佐助はそう言うと、やはりふわふわと揺れる若子の髪を撫でつけた。
「頭を撫でるな、佐助。眠くなる」
若子は一度ぶるりと頭を振り佐助の手を払うと、大きな欠伸をひとつする。
「今朝は早かったからねぇ。若子様寝ていいよ。俺様が抱いててあげるから」
佐助の言葉にこくりと頷くと、若子は体重を佐助へと預け身を寄せた。当然とされるその仕種に、やはり越後行きの同行を許された我が身の僥幸を佐助は噛み締める。
しばらくして、規則正しい寝息が聞こえ始めた。


「目を覚ました時には越後だよ、若子様」



 ◇◆◇



目の前で散った紅。濡れそぼった己が手。
肌身離さず持っていた護り刀は、もはや使い物にならない程、刃が欠けていた。
刃を持ち得た自分の手が震えることに政宗は、一種の笑いが込み上げる。
初陣も済ませ、数えるのも億劫になる程、己が前を立ち塞がる敵を切り伏せてきた。
それが戦場であることと、持て成される茶室とどれほどの差があることか。
得物が六爪か懐剣かに代わる程度のこと。敵の数もそれに比例する。
なのにこの手はまるで瘧りにでもなったかのように震え、それはもう体中に広がりそうな勢いであった。
激しい肉体的消耗に続くはずの荒い呼吸は、もはや政宗の意志ではなく過度の興奮によるものだ。
転がる死体に刻まれた傷は容赦がない。そこここには手であったもの、指であったもの、もうどこの部位であったのかも分からない程血まみれ白い骨をつけた肉塊が散らばっていた。一撃で仕留めるだけの技量を持ちながらもこの惨劇を作り上げたと思えば、刃を振るった者の精神状態は、よもや正常を欠いているとしか言いようがない。むっとした生ぬるい血臭が狭い部屋を満たした。
懐剣を手にした男の呼吸がぴたりと止む。
瞳孔の開かれた片目がある一点を凝視した。
黒漆で塗り重ね、鞘柄に鳥と蔓の模様が描かれた小刀。自分と揃いだった。
「そんなもの……まだ……」
吐き出された声は掠れ、全て言葉になることはなかった。その代わり意味をなさない唸きが政宗の喉から漏れる。
鳥と蔓。その意味は伊達家嫡男である梵天丸は鳥のように蒼穹へ舞い、弟竺丸はその兄の休める枝となり葉となり、兄弟仲睦まじく健やかであれと父輝宗が作らせた揃いの小刀。
今、それがあった。
鞘から抜かれることなく。
母子折り重なるようにして倒れるそのすぐ横に。
「あ…ああ……竺…丸……!竺丸―――!!」
己に向けられることのなかった白刃。
振り下ろした切っ先を凝視するふたつのまなこ。
手に握っているのは藤巴の家紋の入った懐剣。
それは――――――。
「!!」
政宗は着物の袂を掻きむしり紅く染まった畳に膝を付く。胃の腑から込み上げてくる吐気を我慢出来ず、政宗はたまらず吐瀉した。生理的に出る涙も、唇を伝う唾液も拭うことが出来ず、ただぜぇぜぇと肩を揺らす。
何故、場所が茶室でなければならなかったのか。
茶の渋みが毒味を紛らわすからか。
己から太刀を奪うためか。
よりにもよって、この懐剣で血を分けた弟に手をかけてしまうだなんて。
「母上……ッ」
政宗の命を狙った母義姫。それを庇った弟竺丸。
母手ずからの茶を振舞われ、伊達の誉れと世辞を賜った。全てを信じたわけではなかったが、胸内に弛緩が生じたのは事実。しかしその後、手前に置かれた茶器を手に取り作法に習って口を付ければ、微かに生じた唇への刺激に全てを悟った。
逆上し飛び出た罵声が、美しかった母の皮を剥がすのは早かった。
気がつけば、障子は紅の斑に化粧され、数体の骸がむせる程に濃厚な血の臭いを漂わせていた。
政宗を取り巻く空間は、鮮やかな紅に濡れた。
ぬめる手が、絡む着物が、やはり紅く染まって。
何故、躊躇ったのか、とまるで裁くような詰問でもって己に問いかける。
苦言は受けていた。既に元服も終え政宗が跡目を継いだにも拘らず、伊達の家督を竺丸にと望む派閥が動きを見せていると。なれば排除すべきだとある家臣は忠言し、それが出来ぬなら奥州からの追放をとある家臣は提案した。どちらも良しとしなかったのは自分。血を分けた弟、己を産み落とした母、そんな繋がりが重臣らの意見を押し留めた。その結果がこれだ。
ずっと胸にあった。
あどけない顔に浮かぶ優しい笑みが。
何ものにも犯されることない健やかな精神が。
この狭い心の奥底にいつも。
それが、こんなにも自分を苦しめる。
少年が望んだ自分を貫くことで、払った代価はあまりに大きく、
そして取り返しのつかないものだった。
伊達輝宗。父というだけでなく虎哉同様師と仰ぎ、人生の針路と敬愛してきた政宗の実父。
愛されていた。それは間違いなく。彼ほど政宗に慈愛の念を注ぎ、期待を持ち続けた人はいない。
そんな父を己が手で葬った。
直接手を下した訳ではなかったが、自分の采配でその命が落とされたというのなら同じこと。
親類の家督騒動で攻め込むこととなった大内定綱。その姻戚関係にあった畠山義継にも戦渦は及んだ。
当時、家督を相続したばかりの政宗に、重臣は義継の徹底なる討伐を意見した。定綱と姻戚関係にあるだけでなく、伊達傘下から独立し政宗追放を企てていると。しかし、証拠が揃わぬまま戦は始まり、それに勝利した政宗は結果、畠山家の所領土没収で終止させた。当初の狙いは大内定綱。そのついでのような畠山家の根絶を政宗は望まなかった。
非道と言われる行いを、倦厭する気持ちが強かったのだ。
甘い采配。己の信念を貫き、結果得たものは、親殺しという汚名。
所領を没収されるに留まり、あまつさえその所領も輝宗の斡旋で緩和されたにも関わらず、義継は宮森城に居た輝宗の許へ参上した際に輝宗を拉致して連れ去ろうとしたのだ。
高田原で義継一向に追いついた政宗は、輝宗諸共義継を撃つ事を命じた。
『政宗、撃つんだ』
そう聞こえたのは都合の良い空耳だったのかもしれない。人質になるくらいならと、そう聞こえたのは。
『それがしの知る梵天であるというなら』
しかし、その声が邪魔をした。
『撃て……!』
『今在る梵天をそれがしは尊っといと思って……!』
『政宗、撃つんだ……!』
『梵天から離れはせぬ!』
『撃ってくれ!』
発砲の沙汰を知らす腕を掲げた一瞬の後、高田原は紅に滲んだ。

ゆらりと顔を巡らせれば、事切れた竺丸の体の下に微かに動く気配があった。
握り締めていた懐剣が手から離れる。
「……くく…はははは……はは……!」
政宗は背を丸めて突如として込み上げてきた衝動を吐き出した。
その声は酷く狂気じみていて、しかし徐々にそれは獣のような唸り声に変わった。胸内を犯す壮絶な苦しみを発散するかのような咆哮が政宗の喉から発せられる。
ここで殺せばいい。全てのしがらみをここで終わらせればいい。
この惨劇の根源をこの手で。
「…う……く……はぁ…はぁ……!」
しかし、政宗の手は再度刃を持つことを拒絶した。震える両手は懐剣ではなく、どくどくと心の臓を打つ胸をかきむしる。血を吐き出すような苦しみに政宗は悶えた。
そんな女でも母なのだと思う自分がいる。
殺さないでと縋る少年がいる。既にこの手は血濡られているというのに。
どうと政宗の体が畳の上へと倒れこんだ。血の染み込んだ畳と己の髪から、むせ返る血のにおいが鼻をつく。
「…弁丸……」
何故、捨てられない。
これほどの犠牲を出しておきながら、今だ彼を望む自分がいる。
おかしいではないか。あの父を、この弟を、自分は殺した。
愛していた。この狭い心の内の大半を占めていた。
もういない。その存在はここにない。
ならば埋めなければ。
嗚呼、そうか。埋めればいい。
だから捨てられなかったのだ。だから望むのだ。
この風穴のごとく空いてしまった場所に彼を。

「弁丸……オレは………」



騒ぎを聞きつけた家臣ら城仕えの者たちの声に混じって、
ほととぎすの鳴き声が遠くに聞こえた。


お前を喰らう―――





第1章<完>

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