†††君の名は千の言葉より多くを語る†††



朝露も凍り霜が下りる朝早く。
綺麗に片されている台所に立っていた女は背後で聞こえた引き戸が開く音に振り返った。
「おはようございます、ナルトさん」
「・・・・」
無言で頷いて返事をするのは、黒い髪と黒い瞳が清しい色香を感じさせる青年。
朝餉の支度をしていた女は肩ごしに振り返っていた顔を手元に戻すと、柔らかな声音で男に話し掛けた。
「今日は隣りの雷鳥の里まで行こうと思ってますので、帰りは遅くなりそうです」
「・・・・」
やはり無言で何も反応を返さない男はどうやら声が出ないようで、しかしそれほど不自由を感じてないように見受けられるのは、元々口の聞けない質であるのか、元来無口であったからなのか。
音もなく卓に座する所作は無駄がなく、どこか足音忍ばせる猫科の動物を思わせる身のこなしだ。
「お待たせしました」
盆に乗せた茶碗を手際良く並べると、女はまた席を立ち台所へと取って返す。
その後ろ姿を眺める男の目はどこか虚ろで破棄がなかった。
男は過去を持っていなかった。
正確に言えば、女が暮らすここに自分が来る以前の記憶がなかったのだ。
ひと月ほど前に自分はこの小さな集落の近くの川べりに倒れていたらしい。体に負った傷とその状態から上流から流されてきたようだった。
その時の自分の装いや持ち物から忍であった事は間違いない。血糊の付着した所々破れてしまっている装束に、見るからに物騒なものが詰め込まれたポーチにホルスター。しかし己の身元を示すものなどあるはずもなく。本当にこれが自分の物であったのかと、それらを手にしてみても釈然としないものを感じている有様だった。
そんな心境である自分に思い出せるものなど何もなく、ただ目覚めたときに己の思考がたった一つの言葉を占めるから、それが自分の名なんだろうと疑いもせず口にした。そこからの記憶しか今自分は持っていない。
「ナルトさん、まだ召し上がってなかったんですか?」
茶の支度をして戻って来た女にそう促されて、揃えられた箸をようやく動くようになってきた右手に取った。
目の前に座るのは黒い髪と瞳の美しい葉子と名乗る薬師の女。この小さな村唯一の薬所であるここを数年前から住まいとし、時にここで栽培されている薬草や加工した薬丸を近隣の里や村に売って生計を立てているようだった。
たまたま野草を求めて散策していた葉子に見つけられて、ここに運ばれ手当てを受けられたのは幸いだった。
当初の己の凄惨な様子を聞くと、不自由なく動く四肢が有り難かった。
不自由というなれば、声を発する時に焼き切れるかと思う程の喉の痛みであったが、声を出さない分には問題なく、それも今となってはこちらから話し掛けずとも気の利く葉子が先になって動いてくれる為気にすることもなかった。元々無口な質であったのだろうと思うことで特に悲観することはなかった。
ただ最大の不自由といえば、やはり己の素性であろう。
葉子には頭部に受けた衝撃による記憶混濁を起こしているだけかも知れないと言われ様子をみようと今に至るが、日が経てどもいっこうに記憶が戻る兆しはなく、いつ戻るかなど依然として知れない状態であった。
その殺伐とした記憶の中でひとつの光明であるのが『ナルト』。
それは己の名なのか、他の誰かの名であるのか。
今はその名だけが己の持っている全てであり、今の自分を形成する為の必需なのだ。
その名を呼ばれるたびに感じる遺憾しがたい違和感と、およそ無関係であるとしか思えない切なさだとか、検討もつかない感情が沸き上がってきては、焦燥にも似た心の荒みで目の前が真っ暗になる。しかしそれを打破しようにも情報がなさすぎて身動きが取れず、甲斐甲斐しくも自分の世話をやく葉子の好意に甘えている現実が横たわっており、その恩を無下に出来る程の過去をまた自分は持たないのだ。
彼女を避ける為の決定的な何かを自分は忘れてしまっている。
しかし記憶などなくてもいいのだ、と男は思っていた。
こうやってどうにか呼吸をして用意された食事を取り、眠りにつくことが出来る。
この心を占めるひとつの存在の希望とも言える光がどこかにあると確信しているから、今、生きている。
探しに行くことが自分には出来るのだ。
ただもう少しの情報と揺さぶりが必要なだけで。
「何か思い出しましたか、ナルトさん」
静かに首を振ってその問い掛けを否定した。
「そうですか」
心なしか葉子がほっと吐息を吐いたような気がして、申し訳なさが心を掠めた。
彼女は自分の記憶が戻ることを望んでいない。
ここに留まることこそ望んでいるのだ。
彼は罰の悪さを感じながらも今だ慣れない濃い目の味噌汁に口を付けるのだった。



「何か分かったってば?!」
行方の知れなくなったサスケの捜索をするにあたってのナルト達の集合場所である受付所横のテラスに飛び込んだナルトは、息せき切って既に待っていたサクラに問い掛けた。
綱手に捜索打ち切りを告げられてからナルトは同志を募り、定期的に情報交換を交わしている。主にナルトを筆頭にサクラ、サイと同期のメンバー共々である。
今日も任務をこなし報告もそこそこに、ここまで走り込んで来たのも何か情報を得られたとの合図を聞いたからで、
「忍笛は誰が?!」
咄嗟にそう問い掛けた。
「まだ分からないわ。でも元ガイ班と10班のメンバーは任務中みたいだから」
「キバ達か」
「多分ね」
「何でもいいんだってばよ。サスケの情報が少しでも集まれば、それだけサスケに近づけるんだ」
ナルトは低くくぐもった声音で思いを口にした。
それにサクラも深く頷いて、しかし不安げに若葉の瞳をひたりとナルトに合わせる。
「今、サスケ君の事なら何でも知りたいって思うけど、ナルトは怖くない?朗報ばかりとは限らないじゃない」
サクラはその淡く色付いた唇を噛み締めた。
そう弱音を吐いてしまうのも本当は悔しいのだと言っているようだった。
サクラの遠回しの言葉にナルトは不安を払うように被りを振った。
「もし今日サスケが死んだって聞かされても、オレはあいつに会うまで認めねぇってばよ。この目で見るまでは信じねぇ」
綱手に言い放った時と同じようにナルトはサクラに向かって瞳に力を込めた。
自分はよっぽど諦めが悪いんだろうと思う。
好んで忍びになったというのに、仲間の死一つ受け入れることが出来ない。
今までも命の危険を感じた任務は何度かあった。
それでも生と死はどこまでも結び付かず、今が全てであったのだ。サスケがいてサクラがいてサイがいる。それ以上でもそれ以下でもなく、ただそんな日常を愛していたのだ。
もう自分にとってそれは当たり前過ぎて疑問さえ浮かばない構図で、だから誰かの口から語られる空言なんて認めることは出来ない。
呆れる程単純な作りをしている頭はきっと聞いただけでは納得出来ないでいる。
ただ実感がないだけかもしれないけれど、サスケの言葉を聞かなければその姿を目に映さなければ、諦めなど付く訳がないのだ。
淡くも激しく想うこの気持ちを伝えなければ、もう自分は一歩も前へ進めない所まできてしまっている。
お前に執着する。
この想いと同じ強さで返せよと、求めてしまうのは果たしていつから。
またその黒い双眸に対峙した時、胸倉掴んで言ってやる言葉は決まっている。
そうやって今度はお前からの言葉を引きずり出してやるんだ。
そう、後悔しないように。
上を見ても下を見てもキリがないように、この心も同じで、だから地を這うような確率であったとしても希望を。
ナルトの揺るぎない決意を感じ取り、
「そうよね。それにサスケ君強いもんね」
サクラは目の淵に溜まった涙を指で払うと無理に作ったと分かる、しかし彼女らしい笑みを見せた。



遅れてやって来た犬塚キバの情報を頼りに、ナルトが里を出たのはそれから一刻後のことである。





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