~Ver.






ぴちょん―――――。
ギシギシする風呂場のドアを開け放ち、ナルトは大きなため息をついた。シャワーノズルからは一定の間隔をもって、水が滴り落ちている。それを後ろに聞きながら、まだ濡れてはいない体にひとまずバスタオルを肩から引っ掛けた。
「さぶい……」
低い声でつぶやき、ナルトは用意していた下着に手をのばす。
任務が二週間、入院が二週間。家を空けていたのは約一ヶ月。その間にこの家の給湯器は天に召されてしまったらしい。
ここは建物も古ければ、設備も当然のように古かった。総戸数十六のうち入居者はナルト一人、取り壊し予定物件に今さら家主負担給湯器を取り替え、もしくは修理などしてくれるのを期待するのは甘いかもしれない。家主に話しをしたところで他の部屋に移れと言われるのが関の山か。しかし、ナルトはここ数年当アパートの入居者を見ていない。まともに使える部屋が果たして残っているか甚だ疑問だ。
ナルトがここに移り住んで早十数年、ありがたいことにこういった故障というのは今までなかった。ここの湯はもともと熱くなるのが遅い。それもあって、シャワーのコックをひねって真っ裸のまま、随分頑張ってしまった。
そんなワケあって、ナルトは裸になって風呂場に行ったものの、熱い湯に体を温めてもらうこともなく、汚れを落とすこともできず、こうして冷えた腕に部屋着を通そうとしているのだった。
どうせ引っ越しをしなければならなかったのだ。それが少し早くなっただけ。それに退院はしたものの、任務を受けさせてもらえるのにまだ数日かかりそうだ。自分は今すぐにでもいけるけど。
しかしそうすれば、どこからかストップがかかるのは分かっていて。
「その間に探すかぁ。どっかいい部屋ねぇかなぁ……」
 住み慣れた場所を離れるのは少しの寂しさと、大きな期待がわきあがる。サスケから離れようと思っていたところでもあったし、これは丁度いいタイミングかもしれない。
「まぁ、あいつがここにいきなり来るとかってねぇとは思うけど……ここには……」
 サスケとの思い出が結構あるんだってばよ……。
 小さなつぶやきが、どこか薄暗く感じる部屋に響いた。





「なぁ、サイー。お前の住んでるとこ部屋あいてねぇ?」
 そういえば、というようにナルトが隣で白ネギのコーナーから動かないサイへと話しかける。
「うーん、どうだろう」
 買い物カゴに吟味した白ネギを丁寧に入れながら、サイは首をひねった。頭を両腕で組んだナルトが、サイの歩くペースにあわせるように歩をすすめる。
「空いてる部屋もあると思うけど、ただ単身用だけとは限らないからね。君ここに引っ越してきたいの?」
「どこでもいいっちゃあ、いいんだけど。まぁ、ここスーパーも近くにあるし、受付所も結構近ぇし」
 ナルトは今、サイのアパート近くのスーパーに夕食の材料を買いに来ていた。上忍ベストを着た男二人がスーパーの中を徘徊しているのは、若干人目をひいているようで、近所の奥様方だろうか、チラチラと視線を感じる。
「そうだね。場所は悪くないと思うよ。それに結構広いしね。今度大家さんに聞いておこうか?」
「頼むってばよ。できれば急ぎでもいいか?」
「分かったよ。でもボクは別に気にしないよ」
 サイはナルトの方に顔を向けると、目を細めて笑んでみせた。
 ありがとうってばよ、と小さくそれに返してナルトはサイの前をいく。
 退院して二日目。ナルトはサイの部屋を訪れていた。給湯器復旧のめどがたたなかったナルトは、比較的近くに居住をかまえていた元セル仲間のサイを頼ったのだ。風呂を使うついで、夕食も食べていったらいいという嬉しいサイの申し出に、ナルトは嬉々として頷いたのは言うまでもない。先ほどサイの言った、気にしないという言葉は、ナルトにいつでも来ればいいという非常に有難い内容のものだったのだ。
「ボクが任務で部屋を空けることになったら、カギも渡しておくし。自由にしてくれていいよ」
 さらに笑みを深めてサイが言う。
「そこまでやっかいになるわけにはいかねぇってばよ」
「意外と遠慮しいなんだね、ナルトは」
 今度は白菜コーナーで足を止めて、サイは笑った。
「何でお前に遠慮しねぇとなんねぇんだよ。他に理由があんの」
 サイにからかわれたような気がしてナルトは声高にそう言った。
「どんな理由だい?」
「……い、言えねぇ」
 うつむいてしまった本日の客人をやれやれと、サイは首をすくめてみせた。自分から話を振ったくせに、落ち込んでしまったナルトを、サイは分かりやすいなぁと思う。
 サイは自分がよく空気を読めないだとか、一言どころか二言三言多いと言われているのも知っている。自覚もある。しかしサイが心を開く数少ない友人の内に秘めるものに関してだけは、読み取ることに長けていた。ナルトが自分の部屋を訪ねてきた時、その困惑の表情が使い物にならなくなった風呂の件だけではないということには、何となく気付いていた。
「言いたくないことを詮索しようとは思ってないよ。君から差し出される手は、導くためのものであっても救済のものであったとしても、ボクは絶対にはねつけることはしないと決めているから」
「お前、それオレのこと信用しすぎだってばよ」
 ゆるぎないサイの言葉に、あきれたようにナルトが返す。
「そうかな。だってどう考えたってボクの倫理観念よりも、ナルトの方がはるかに正しいような気がするんだよ」
 ニコリとサイが笑顔を向けた。
「オレだって……いつも正しいわけじゃねぇよ」
「そうだね。でも君はそれを正しい道へと修正できる何かを持っているような気がするよ。だから君に着いていこうとする仲間は大勢いるし、実際ボクもそうだ」
 考え込むようにナルトは黙り込む。
 シメジのパックを持ったサイが、やはり顔に笑みを浮かべてナルトをさとす。
「信じられないかい?ただボクは何があっても君の味方だってことは忘れないで欲しい」
(こいつには、いつか話すかもしれねぇってばよ……)
 ナルトはサイの言葉を嬉しく思いながら、ようやくいつもの笑顔をこの盲目なる友人に見せることができたのだった。

まさかこの小さな偶然があんな誤解をうんでしまうだなんて、この時のナルトには思いもよらなかった。






退院前日、ナルトのひた隠しにしてきた想いがサスケに感づかれてしまいそうになったあの日から、くるであろう彼からの襲撃はまったくと言っていいほどなかった。あんなバレバレな反応しか返すことしかできなかったにもかかわらずだ。
その沈黙はナルトにあるひとつの可能性を決定づける。
サスケは気づいていながら、ナルトの想いをなかったことにしようとしているのではないかと。
数日前に会った彼はいたって普通で、こちらが拍子抜けしてしまうほどだった。実際、拍子抜けしている余裕などナルトにはなかったけれど。
あれはナルトが任務受付所へと退院報告、及び現場復帰請求に赴いた時のことだった。任務授受は四日後と言われ、ふて腐れながらもそれを承諾し、事務所を出たその先にサスケがいた。
その時交わした言葉は、正直あまり覚えていない。ドアを開いたまま固まってしまった自分に、いつもの無表情で「出ないのか」とかなんとかサスケは言ってきて、それに否定したか謝罪したかで慌てて彼の横を通り過ぎたのだった。
どうしてもギクシャクしてしまう自分。きっと自分の中にサスケを好きになってしまったという負い目と、その彼を避けてしまったという罪悪感が織りまざって、自分にそんな態度をとらせてしまったのかもしれない。



退院の日、サスケが迎えに来るということを恐れたナルトは用意された朝食を腹におさめてしまうと早々に病院を後にした。外来受付がまだ始まっておらず正面玄関がまだ閉まっていたことから、それこそ逃げるようにして裏口から出ることになってしまった。しかし、内心ではどうあれ、表面的に自分の退院はおめでたいものだったのかもしれない。薄暗い廊下をナルトはあの自分の担当であった看護師の彼女と歩いた。
その時、ナルトの気持ちはまだ決まっていなかった。自分より三つ年上だと言った彼女は、藤色の長い髪と碧色の瞳をもつ綺麗というよりは、可愛らしいと表現した方がしっくりくるような大きな瞳が印象的な女性だった。仕事中は邪魔にならないよう前髪はピンで留め、後ろでひとつにまとめられていたからか特に何かを感じたことはなかったが、退院の日、背に流れるようにほどかれていた彼女の姿にナルトは目を細めずにはいられなかった。職業柄か、優しさと厳しさを持つ彼女にその時になって初めてナルトの中で良い意味で何かが合致したのだ。
しかし、今まで抱えていたサスケへの想いは深く、やはり彼女への想いに今すぐ応えるのははばかられた。例えばそれが彼を完全に諦めるためのきっかけであったとしても。
別れ際、もう少し時間がほしいと言ったナルトに、彼女はゆっくり頷いてくれたのだった。
そんなことがあってナルトの気分は楽になれるかもしれないという期待と、それでもまだ諦めきれない想いとがないまぜになって、この胸奥をじくじくと痛ませていた。
日々の任務がない分だけ時間はあるように思えたが、整理せねばならないモノが多く、その中でもナルトがまず最初に実行したことは、サスケにたいする徹底した拒絶だった。
ひとつは、自分が忍らしくあるために。
ひとつは、つくろえない己を隠すために。
今それが間違っていたとしても、貫き通したその結果に自分が納得できればそれでいい。ナルトとしても今の自分の行動が、かつてないほど消極的であることは十分承知していた。しかし、そうと決めた今、持ち前の真っ直ぐさで後退的路線を突っ走ってやると、前向きなのかそうでないのか、どうして判じがたい極致にいるナルトだった。
自分はもしかしてサスケが嫌いなのではないか?と錯覚してしまいそうになるほど、会いたくなければ、声も聞きたくない。それは言わば脅迫観念というものだったのだが、そんなもの今だかつて抱いたことのないナルトは、頑なにサスケを避け続けていた。それは見事としかいいようがないほどに忍らしく完璧に。




退院から四日たち、ナルトにも任務が回ってくるようになった。まずは里内の簡単な任務ばかりでそれをナルトは嫌ったが、こっちにも規則があるんだと、もう何度目になるか分からない説教を元恩師である海野イルカに受けていた。
それでもナルトは今はひとつでも多く任務をこなしたかった。できれば余計なことを考えなくてもいいような、任務遂行のためあの手この手を使ってそれだけに没頭できるような内容の任務を希望していた。
そういった任務がそんなナルトの望むタイミングで舞い込むわけもなく、しかし任務自体は彼の望んだ通り休むことなく回された。そのほとんどが当日中に片が付くようなものばかりだったけれど。なるべくは里内にいたくないナルトとしては贅沢を言うことなどできない。
任務に待ち合わせ、それをこなす、報告書はその時の仲間に頼みこみ、自分は真っ直ぐ帰った。
ナルトはできるだけ受付所には寄らないようにしていた。里中で一番彼と出くわす確率の高い場所だからだ。報告書は申し訳ないと思いながらも、その時セルを組んだ仲間に頼み、任務の受取は最善の注意をはらって出向いた。
その成果あって受付所の入口で会った時以外、彼の姿を見ていない。
広い里でのこと、特に家が近いとは言えないサスケとの接点を作るには、お互い積極的に連絡を取り付けるか、もしくは偶然を期待するなら受付所が一番にあげられた。前者を拒絶し、後者を避ければもうナルトとサスケは顔を見ることもなければ、声を聞く機会さえない。
たまにドキリとするのは友人、仲間から彼の名が出たときくらいであった。しかしそれさえも、まだそんなことくらいで自分のサスケにたいする気持ちは、反応し震えてしまうということを再確認する材料となり、一層ナルトの心をかたくなにさせた。
そうしてナルトはまだ会えそうにないと落胆し、新たに拒絶の壁を強固なものへとせねばと決意するのだった。
「ナルト、お前痩せたんじゃないのか?もうすぐオレも終わるし、これから一楽でも行かないか?」
元教え子に忍の何たるか、任務の何たるかを聞かせ続けていたイルカが締めくくるようにそう言ったのは、ちょうど入れ代わりの中忍が入ってきた時だった。
「イルカ、悪い待たせたな」
急ぎ部屋へと入ってきた彼は申し訳なさげに頭を下げた。
「いや、いいよ。ナルトと話してたしな」
人好きのするおおらかな笑顔で、イルカは遅れてきた同僚を迎える。報告書やファイルが置かれた長テーブルの内側へと回り込んできた彼は、もう一度イルカに向かって悪いと謝ると、ついでのようにナルトにもお疲れ様と声をかけてきた。つられてナルトもそれに返す。
「で、どうする?ナルト」
イルカがまだ返事をしていないナルトに確認する。
「あ、ごめんイルカ先生。今日はサイん家で飯食うんだ」
 そうだったと、ナルトがイルカの顔を見上げる。
「そうか。しっかり食えよ。ただでさえこの前まで怪我人だったんだからな」
「もう大丈夫だって!怪我も治ってるし、飯もちゃんと食ってるってばよ!」
いつまでも子供扱いするイルカにナルトは頬を膨らませた。
「そうか、ならいいんだ。この前サスケがお前のこと聞いてきたから、ちょっと心配してたんだよ」
「え?」
 ナルトの心臓がどくんとはねる。
「お前、サスケとまた喧嘩でもしたのか?」
「サ、サスケ何か言ってたの?イルカ先生」
 落ち着けと己をなだめてみても、不自然に声がかすれてしまう。
 一気に落ち着きをなくしたナルトに、イルカは会得したとでも言うような表情を浮かべた。
「やっぱり喧嘩か?話があるのにつかまらないって言ってたぞ。もうお前もいい大人なんだから、一方的に相手を避けるとかやったらダメだろう」
サスケが自分を探している。それを聞いてナルトは嫌な感じに胸が騒ぎ出すのをじっと耐えていた。
 もう一人の元教え子の名を出した途端、ナルトの口調に幼さを感じて、イルカは苦笑がもれそうになるのを堪えながらさとすように言った。
「ちゃんとサスケと話し合ってだなぁ……」
 話し合っても解決しねぇから避けてるんだってばよ!とこの人のいい恩師に言ってやりたいナルトだったが、理由を問われれば、自分はだんまりを通すことしかできないことは分かっていたのでそわそわと適当に相槌をうつ。そんな二人のやりとりを見ていたらしいイルカの交替員が、
「うちはだったらもうすぐ報告書持ってここに来るだろうから、もう少し待ってたらいいよ」
 そう口添えした。さらにナルトの鼓動が激しく打ち出す。
「だそうだ。何があったか知らんが、早く仲直りした方がいいぞ」
 完全に教師の顔をしたイルカがナルトの肩をたたく。
 冗談ではなかった。自分はまだサスケに会えない。
会いたくない!
「イルカ先生、ごめん!サスケのことはホント喧嘩とかじゃねぇんだけど、でもちゃんとどうにかするから!オレもう行くってばよ!」
「お、おいナルト!」
 逃げるようにして部屋を出て行こうとするナルトを、イルカは慌てて止めようとした。それより一瞬早く、
「本当ごめん!」
 最後にそういい置いて、脱兎のごとくナルトは部屋を出て行ってしまう。
 残された中忍二人は互いに顔を見合わせたのだった。






 サスケが自分に話しがあると言っていたらしい。あの時はサスケがまさかイルカに自分のことを聞くだなんて思いも寄らなかったから驚いてしまったけれど、冷静になって考えてみれば彼は自分に話しがあると言ったのだ。もうここ数年、サスケから話しがあるといえば、ナルトにはひとつしか思い浮かばない。
「もうお前の別れ話しも、始まりの報告も聞きたくねぇよ、オレ」
 ついともれ出た本音にナルトは小さく唇を噛んだ。
 火影を目指す忍として、忍びらしくありたい?
 こんな言葉が出てしまうことから、すでに自分は忍であるとか、そのありようであるとか抜きにして物事を進めていこうとしている。ただ逃げているだけだ。こんなの。
 しかし、いまさら昔のように戻るわけにはいかなくて。
サスケが望む自分にはもうなれないのだ。
ナルトには時間が必要だった。




 しかし、現状を打破しようとしていたのはナルトだけではなかったようで、サスケも同じのようだった。
彼と顔を合わさないようにして一ヶ月が経った頃。
そろそろ、長期の任務も入れてもらおうと思っていた矢先。
 サスケが本気で動き出した。










次からタガが外れるサスケ












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