迷走飛行症候群



教壇にて熱弁をふるっていた数学教諭エビスは、鳴り響くチャイムが最後を打つのを待って、手に持っていた教科書をパタンと閉じた。神経質を絵に描いたような縁なし眼鏡の奥にある目が、生徒たちをぐるりと見渡す。
「それでは皆さん、今日の授業はこれにて終了と致しましょう。日直さん、お願いしますよ」
「きりーつ」
エビスの言葉に本日の日直係りであったナルトは、たかだか50分の授業で精も根も尽きはてたような風体で号令した。一斉にガタガタと椅子が床を擦る音がして、途端に教室が騒がしくなる。
「れーい」
ナルトの号令で一同揃っての礼が終わったところで、思い出したようにエビスが声を上げた。
「ああ、そうでした。40点以下の赤点の方は明日の放課後追試を受けるように。それでもまだ赤点をとってしまうようでしたら、夏休みは補習授業を行いますから、追試の方は頑張って下さいよ」
眼鏡のブリッジをくいと押し上げ、数学教諭はついでに唇の端も押し上げた。ばちりと視線が合う。その視線の意図するものが日直だからというだけではないことを、ナルトは折り畳んだ藁半紙を尻目に苦々しく受け止めた。喉の奥が悔しさか、はたまたムカつきからかぐぅと鳴る。
もちろん数十人の生徒の数学教諭でしかない彼は、ナルトのことなど気にもとめず、言いたいことを言ってしまうと教室を出ていってしまった。
残された生徒たちは後のホームルームまでの時間をおしゃべりで過ごす者もいれば、帰る用意を黙々としている者もいる。そんな中ナルトはぐったりしたように席に着くと、机に突っ伏した。
「ナルト。もしかしてお前追試かよ?」
2度目の席替えで窓側の席になったナルトに、キバが話しかけてきた。ちなみに現在ナルトの隣の席は彼である。
「もしかしなくても追試だってばよ」
机にへばりついたままナルトは情けない声でそう返した。
「何点だったんだよ、お前」
キバは明らかに面白がっている口調で、ナルトの腕の下敷きになっている解答用紙を引き抜いた。それに気づいたナルトがガバリと起き上がる。
「ちょっ!てめー見んなってばよ!」
慌て取り返そうとするが、すでに4つに折られた藁半紙は開かれたあとで、右上にデカデカと赤ペンで書かれた点数はもう隠しようがない。
「じゅ……!?」
点数を読み上げようとしていただろうキバが固まった。さすがにそれを読み上げる勇気はなかったようだ。
ナルトは赤面しながらキバからバッと解答用紙を奪い返す。
「キバは何点だったんだよ!?」
悔し紛れにナルトは吠えるように言った。
「はっはっはー。オレは40。ギリセーフってとこ」
「それじゃキバもオレと一緒で追試だろ!」
「バカ言え。40点以下が追試だったら40点のオレはセーフだっての」
誇らしげにキバはナルトを見下ろした。決して誇れる点数などではないが、ナルトの失点ともいえる点数を見たあとでは、自分の点数など可愛いく見えるてしまうというもの。しかしすぐ後に、それは錯覚であったのだと気づかされるのだが。
「40なら追試だ」
窓側の一番後ろという特等席を引き当てた、今月一番のラッキー男うちはサスケがキバの勝利宣言に水を差す。
「なにー?!」
「ほらな?」
同意を得たナルトは、得意そうに相槌を打った。
「残念だったな」
「明日は一緒に頑張ろうってばよ」
ニッと笑って見せるナルトにキバはくそっと毒づいた。
「追試ぐらいいくらでも受けてやるっつーの。ちょっと勉強すりゃ、あと1点くらいどーにかなるぜ」
キバはふんと鼻をならすと当然とばかりに怒りの矛先をナルトに向ける。
「ヤバイっつえばお前だよな。1日でどうにかなんのかよ、それ」
それとキバが指を差した先にはにぎりしめられた解答用紙。そう指摘されて、はたとナルトは己の実情を思い出す。ナルトに人のことをとやかく言っている暇などなかったのだ。
「何とかするしかねーだろ。がーもう!何でキバが40でオレがじゅう……!」
あられもない数字をおのずから暴露しそうになってナルトは慌てて口を閉じる。
それを見下ろしていたサスケが、やれやれとあきれた風に小さく首をふった。
「お前よくそれでここに編入できたよな」
そう言うと、サスケは口許に厭味な笑みを浮かべた。そんな表情でさえ嫌になるほど様になってしまうのが、とてもつもなく口惜しく悔しいのだが、そうも言っていられない直面にナルトは立たされている。
そう、楽しい楽しい夏休みが危険にさらされているのだ。この危機的状況を前にあの点数を拝んでしまった今、自分が自力でそれを回避できる自信などあろうはずがない。むしろ皆無に等しい。
自力が無理であるなら助力を求めなければならないのだが、隣席は当日一緒になる同類である、まったくもって役には立つまい。ナルトはちらりとサスケを見上げる。キバの机にもたれるように立つ今月のラッキー男は、悔しいけれど即戦力となりうる実力を持ち合わせていた。こいつに頭を下げるのはとてつもなく悔しい。悔しいけれどナルトには夏休みという一大イベントが待っている。背に腹はかえられない。あーちくしょう。
「あのさ。お前何点だった?数学」
気がすすまないせいか、ナルトの声には破棄がない。
「94」
さらりと言ってのけるサスケの顔をナルトは穴があくほど見つめた。前の中間テストの時もムカつくほど頭の良いヤツだと思ったけれど、
「サスケー!」
こんなにも今自分が必要とする存在だとは思わなかった。
ナルトは込み上げる感情を惜し気もなく披露する。サスケの腰に思い切りタックルをかましたのだ。
「今日お前ん家行くから!マジ行くから!一緒に帰ろうってばよ!」
「おいッ!てめーいきなり何言って!ッつか離れろ!このウスラトンカチ!!」
ナルトのいきなりの暴挙に普段の鉄面皮もどこへやら、しがみつく幼馴染をサスケは怒声まじりに引きはがしにかかる。もちろん離されてたまるかと、サスケの腰に回した腕には渾身の力が込められた。
「サスケがイイっつーまで離れねー!オレには今、お前がめちゃくちゃ必要なんだってばよー!」
さらなる追い撃ちをかけるように、ナルトはそう叫びながら当たるサスケの腹に頭をぐりぐり押し付けた。今のナルトにもはや恥も外聞もない。サスケが良しと頷くまで思いのたけをぶつけてやる所存だ。
「オレじゃなくてシカマルに頼めばいいだろうが!」
離れようとしないナルトにサスケはもっともなことを言う。
シカマルはああ見えて、学年でナンバーワンの学力を誇る生徒なのだ。ここで優等生と言えないのが面倒くせぇが口癖の彼の彼たらしめる所以だが。
そんな非常に幼馴染としてありがたい存在がもう一人いるにも関わらず、この男に頼み込まねばならない理由はもちろんナルトの方にはある。
「仕方ねぇだろ、だってシカマルのヤツ教え方がハンパなく下手くそなんだから!てかオレってばあいつが何言ってんだかさっぱり分かんねぇんだもん!」
ナルトはシカマルのせいだとばかりに、サスケに訴える。
「てめーは国語からやり直せ!」
「そんな時間オレにはねぇんだってばよー!」
「オレにもねぇよそんな時間!」
「ウソだ!今日は部活も稽古もないの知ってんだからな!」
サスケは剣道部に所属している。彼の家は代々警察行政にかかわる職についているらしく、教育の一環か小さなころから剣道をたしなんでいた。昔は近くの剣道場に通っていたらしいが、中学部に入ってからは部活も剣道部に所属し、家では父親に教えを乞うている。ナルトも何度か入ったことがあるが、あのお屋敷には剣道場があるのだ。サスケは今年県選抜も勝ち抜いていて、この夏休みには中学最後の全国大会を控えているのも知っている。しかし、彼にまったく時間がないわけでもないのもナルトは知っていた。
今は急を要するのだ。自分には今日しか時間がない。ナルトは骨も砕けよとばかりにギリギリとサスケを締め上げる。
「分かった!分かったから離れろ、ナルト!」
根負けしたようにサスケは白旗を振った。
「マジで!?」
サスケの腹に押しつけていた顔をばっとあげてナルトは瞳を輝かせる。目があった瞬間サスケが顔面をつかんできてふぐっとナルトはうなった。
「何すんだってばよ!」
すぐさまそれを振り払って噛みつくように吠えると、サスケは怒ってるようにも困ってるようにもとれる変な顔をしていた。相当苦しかったのか珍しく頬が上気している。
「近すぎだ、ドベ!」
そして、悪態をつくことは忘れない。
「だからって人の顔をつかむんじゃねぇ!」
「それが人にものを頼む態度かよ」
くそーと思いながらもそれ以上の反抗は確実に、最悪な夏休みという想定を確かなものへと変えてしまう。それだけは阻止せねばならない。
ナルトはがーっと一声吠えると、
「今日はヨロシクお願いしますってばよ!サスケせ、ん、せ、い!」
先生の部分を強調するあたり、彼の嫌さ加減がうかがえた。
「仕方ねぇから教えてやる。おおいに励めよ」
そんな二人の会話を間近で見ていたキバが、面白そうに口を開いた。
「本当お前らって仲が良いよなぁ。いつの間にか下の名前で呼びあってるしさー」
その一言にナルトは「仲良くなんかねぇよ!」とすぐさま反論し、サスケは一瞬周りを見渡した後「『うずまき』より『ナルト』の方が短いだろ」と言い訳のようなことを言い置いて自分の席へと戻って行ってしまった。それからすぐに担任のイルカが教室に入ってくる。
「そしたら『シカマル』は何で『シカマル』なんだろうな?」
名字の方が短い…とサスケの持論が腑に落ちないというようにキバはナルトに同意を求めたのだが、先ほどのサスケ同様、若干頬を上気させた隣席の幼馴染をみとめて、諦めのため息をひとつこぼしたのだった。









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