†††やさしい猫の戻し方†††



「わりぃ、サスケ……」
申し訳なさ気に項垂れるのは、全身隈なく洗い上げられた黄色い猫。その小さな体からする石鹸の香りが布団を敷いた和室に漂っている。
「……いや」
もくもくとシーツを奇麗に折り込んでいたサスケが素っ気なく返事をした。今のナルトの謝罪は布団を用意してくれていることに対しての言葉ではなく、それに関してはありがとうと言えばいいのであって謝罪ではない。ではなぜ普段めったに(特にこの男に使うほど縁遠いことはない)謝罪という言葉を口にしたかというと。
(まさか、爪が出てるなんてさ)
いつからかは知らないが、ナルトが気付くまで痛そうな素振りひとつ見せない澄ました顔をしていたものだから、まさかサスケの手が自分の爪であんなにも傷だらけになっているとは思わなかったのだ。
「手当くらいしろってばよ、サスケ」
「これくらたいしたことねぇよ」
やはり素っ気ない返事が見上げる背中から返ってきた。
そりゃあれくらいの傷だったら痛いうちには入らないかもしれない。それでもサスケの手の甲に他のものよりも深くえぐられた傷を見つけてしまって、ナルトはやはり申し訳ない気分になった。
まぎれもなく自分が付けたものだという自覚があるから、相手はサスケなのにいたたまれない。解りづらくはあるがやけに優しいサスケに戸惑ってしまうナルトだった。
ナルトにご飯を用意するサスケ、ナルトを風呂に入れるサスケ、そしてナルトの布団を丁寧に敷くサスケ。 
いつものサスケとは無縁の行動であるのに対して、言葉や仕種がどこまでもナルトの知っているうちはサスケなのだ。
「でもおまえさっき、オレの方が痛いって言ってたってばよ」
ナルトは風呂場でのサスケの言葉を思い出した。最初は何が痛いのかさっぱり解らなかったけれど。
「そーゆう意味で言ったんじゃねぇ」
「じゃあどーゆう意味だってばよ?」
「…………」
動かしていた手を止めてサスケはナルトを振り返った。無言で見つめてくるサスケにナルトはどうも気まずくて、横になっていた体を起こす。視界の隅に己のものと思われる長い尻尾が右に左と揺れているのが見て取れた。
「言ってもてめ―には解らねぇ」
サスケのにべもない返答にナルトはムッとする。
「解らねぇから聞いてんのに、何だよバカサスケ!痛てぇなんて珍しく言うから気になっちまったじゃねぇか!心配して損したってばよ!」
フーフーと小さな体を戦慄かせてナルトは目の前のサスケを睨みつけた。何で、どうしてサスケの言葉はこんなにもナルトの心を逆立てるんだろう。
じっとナルトを見下ろしていたサスケがどこか神妙な面持ちで、すっとナルトの方へ手を伸ばしてきた。頭から背中に向かってゆっくり撫でられる。
「何すんだってばよっ」
「毛、逆立ってるぜ」
サスケは低く呟くと立ち上がって手を上げれば届く距離にある照明の紐を二回引いた。豆電のほのかな明かりだけを残して部屋の照明が落とされる。
「サスケ?」
ナルトは唐突なサスケの言葉と行動を何となくではあるが理解した、ように思う。こちらを見るなと言わんばかりに頭に乗せられた今は大きく感じる手の平だったり、急に部屋の明かりを落としてしまったのだって気付いてしまったのだ。
言葉では解らないことがあったとしても、自分の動体視力は大したもので、手を伸ばした時に垣間見えたサスケの顔にほんのりと朱が挿していたことをナルトは見逃さなかった。
(あ、もしかして……)
「サスケ照れてるってば?」
「…………うるせぇ」
サスケはいつもの小競り合いは終了とばかりにナルトの方は見向きもせず、足下に敷いてあった布団に横になる。暗くなってしまった上にナルトとは反対の方を向いてしまっているため、サスケの表情はもちろん、顔色など解るわけがなかった。でも、
(ここにきてオレにもちょっと解かったことがあったってばよ)
自分に対して寄せられる好意、例えば心配されたり優しくされたり、そんな事を目の当たりにしてしまうと、特にその相手が自分にとって予想外な相手だったりすれば尚更、反発してしまったり怒ったような態度をとってしまったり、とにかく普通になんかしていられない、正直どんな顔をしていいかすら解らなくなってしまうんじゃないかって。
(だって、オレも今日そうだったってばよ)
「サスケ」
横になったまま身動きひとつしないその背中に呼びかけた。返事はない。それでもナルトはサスケに話しかける。
「サスケ。今日はありがとうってばよ。オレってば今こんな格好だからかもしんねぇけど、こんな風に世話焼いてもらったり、しかもそれがおまえだなんて変な感じで、どうしてたらいいかなんてのも解らねぇし・・・。でも一人だったらって考えると、おまえいてくれて本当良かったって思ってる」
共通の秘密をもったあの日から急速に、そして今は少しずつサスケとの距離は縮まっている。それでも普段の自分であればこんなこと言わなかったかもしれない。
「おやすみ、サスケ」
ナルトはサスケの用意してくれた、今の自分にはあまりにも大きすぎるような気がしてならない布団に丸くなる。今日は疲れた。目を閉じるとふわふわと体からただよう石鹸の香りに口元がほころぶようで。ただ、大きすぎる寝床は少しの寂しさをナルトに感じさせた。
「ナルト」
暗闇から自分の名を呼ぶ声がする。彼からのその呼び名はあまり聞き慣れなくて、やっぱりナルトは戸惑ってしまった。こんな風に名前を呼ばれるくらいなら、
(まだ、ドベだの、ウスラトンカチだの呼ばれる方がマシなような気がするってばよ)
それほどにこの耳に入ってきたサスケのナルトを呼ぶ声は耳に心地よくて、困ってしまった。
ナルトは閉じていた目を開く。反対を向いていたはずのサスケがこちらに体を向けていた。こんな薄暗い中でも夜目のきくナルトはサスケの黒い瞳を奇麗だとぼんやり思う。ただ、ナルトを見つめるその瞳が濡れているように艶めいている意味まではナルトには解らないけれど。
一瞬、その瞳が細められる。なぜだかどきりとした。
「こいよ」
意志をもってナルトに投げかけられた言葉。やはり心臓がひとつ大きく跳ねた。
相手はサスケなのに。
「ナルト」
また名を呼ばれた。促すように。
寂しいんだろうか、不安だったんだろうか。
その黒い瞳に魅せられ、誘導されるように体が動き出す。

気がつけば、すぐそこにサスケの顔があって、自分の鼻とサスケのそれが触れ合っていた。



次の日、目を覚ますとサスケの顎辺りをくすぐるように、黄色い毛並みが得てしてふわふわとたなびいていた。ただ昨日と違うのはその長さであったり、色味であったり言い上げればきりがないのだが、一言で言うとそれはサスケの良く知るうずまきナルトその人であった。
(戻ったのか……)
サスケは起きる気配のまったくないナルトを心中穏やかとは言い切れない心持ちで眺める。
昨日のカカシの態度からしてこの結果は、妥当であると言えるだろう。予想できたことであるにもかかわらず、昨日ナルトを呼んでしまったのもなぜなのかを、サスケはもうごまかしたりはしない。
ただ触れたかった。
あのふわふわとした毛並みに騙されそうになってしまったが、結局自分はうずまきナルト本人に触れたかったのだ。ただナルトはまだ自分ではなく、猫の方に比重を置いているようなのだが。
(よくも、そこまで鈍くなれるもんだ)
サスケはそのことに対して安堵しているのか、物足りなく感じているのか胸中複雑だ。
今サスケの身に起きているのっぴきならない朝の事情であったり、目を覚ましたナルトとの間に流れるであろう気まずい空気であったり、朝から疲れることこの上ないことが安易に予想できたが、今の状況を手放そうとは思わなかった。それでもまずは己を(ある一部分)を落ち着かせようとサスケは試みる。
(健康男子の諸事情とはいえ、マズイだろ……)
しかし隣に感じる温もりを意識してか、いつもであれば気にも止めない朝の主張も手に負えない。
(あー、抑えれねぇ)
忍耐という言葉に早々と見切りを付け、サスケはその薄い肩に腕をまわすことにした。
外を伺えば夜の帳が白み始め、鳥のさえずりも聞こえてくる。
まだ起き出すには早く、でもこのまま眠るのは、やはりもったいなく感じてサスケはナルトの寝顔を眺めることにした。
「ううぅん」
ナルトがサスケの腕の中窮屈に感じたのか小さく身じろいだ。それでもまだ目を覚ます気配はない。
このまま眠ったフリをしてみようか、もちろん背中にまわした腕はそのままで。好都合にもナルトの手はサスケのシャツを握ってくれている。
そんな仕種でさえ気持ちは浮きだつようで、ナルトに合わせて丸まるようにして抱き込んだ。
明らかに変わってしまったナルトへと向かう己の気持ち。
自分の記憶する限り彼とは背中を預け合うとかそんな格好のつくような仲ではなく、何かにつけ反発し合う磁石の同極のような、言うなれば世話のやける仲間であったのだ。それが今は異極同士のように身を寄せ合っている。
きっかけは些細なことだ。しかし想いはあの慟哭を打ち消すナルトの言葉を聞いてから息づいていたに違いない。
仲間だなんてそんな簡単な言葉ではくくれない。好敵手だなんてそんな刹那的な関係でもない。
ただ強く望まれた。それと同じだけの想いで望んだ。今もその熱情ともいえる感情がここにある。
だけれどこれは恋じゃない。そんな幸せな感情などではなく、もっと深く、もっと自然で。それがないと息も満足にできない。ただ必要だと思うもの。
だから耐えられない。あんな頼りない生き物の姿をしたナルトではなくて、あの晴れた空のように鮮やかな青い瞳だったり、実は触れると案外柔らかくて太陽の光りを集めたような髪の毛であったり、そんなナルトをナルトとたらしめるものに触れてみたかった。
しかしそれは自分の首を絞めるに均しい感情であることをサスケは正しく理解する。
常に自分のうちにある暗く重苦しいもの。今まで自分を奮い立たせてきた感情もまた捨てきれないからだ。
ただ温もりはここにある。その姿を持ってして。
「何で戻れなかったんだよ、おまえ……」
気付きたくなかった。己の存在意義をおびやかす勢いでその光の道は照らされている。それらが交わるはずもない。自分が自分である限り、彼が彼である限り、この頼りない繋がりもまた不変のものなのだ。
相反するそれらを天秤にかけたところでまだその答えは出そうにない。
でも今はまだ。自分にもこんな感情が残っていたのだと懐いたい。
サスケはゆっくり目を閉じる。相変わらず眠気は襲ってこないが、傍らの存在を感じるには調度良い。


―――数刻後、危うく鼓膜が破れるかと思うほどの大音量の叫び声に叩き起こされるサスケだった。





もうちょっとだけ続きます///

挿絵:marjoram_shiho様




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